世界一美しくて、未練がましく、みっともない“苦悩の芸術”。
BLOOD ON THE TRACKS (血の轍) BOB DYLAN

Tangled Up In Blue ブルーにこんがらがって
Simple Twist Of Fate 運命のひとひねり
You're A Big Girl Now きみは大きな存在
Idiot Wind 愚かな風
You're Gonna Make Me Lonesome When You Go
おれはさびしくなるよ
Meet Me In The Morning 朝に会おう
Lily, Rosemary And The Jack Of Hearts
リリー、ローズマリーとハートのジャック
If You See Her, Say Hello 彼女にあったら、よろしくと
Shelter From The Storm 嵐からの隠れ場所
Buckets Of Rain 雨のバケツ
今年、一発目の記事は、ディランにしました。
(仙人様。 今年一年、“お顔”をお借りいたします。)
なんか自分の中では、今年はディランが“熱く”なるのではと思うんです。
特に理由はないんですが・・。
昨年末の紅白で、桑田さんが、いきなり出してきた新曲は“ディランもろ出し”
だったし。 考えれば、今年5月で70歳になる仙人様。
クラシック界における「3大“B”」と言ったら・・。
「 ベートーベン、バッハ、ブラームス 」
(これがオーストリアに行くと、ブラームスがブルックナーに変わるんですが)
ROCK界における「3大“B”」といえば、色々意見が分かれるとこでしょうが、
「 Beatles、Beach Boys、そして、Bob Dylan」 と私は思う。
それほど、ROCKを知る上、語る上で、ディランは必須科目である。
故にディランを語るには、フォーク・ロックの革命を起こした60年代の作品から
キッチリ語っておくことから始めるの常套手段なんだけど、私はディランで
一番好きなのが、70年代。 66年の大事故後の半隠居からカムバック以降、
型にハマらないROCKのスタイルを形成していき、新たなピークを迎えるという
開拓者としての仙人様に魅かれるのだ。 私も型にハマるのが嫌な方。
好きに語らせていただきたく思う。
「血の轍(わだち)」。 おどろおどろしいネーミングだ。
しかし巷や一般的には大傑作、70年代の最高傑作の呼び声も高い。
私は、ディランのような“天才”の作品に順位を付けてもあまり意味がないと思ってるが、
確かに、この収録曲の誉れ高さは、他の追随を寄せ付けない。
今宵は、75年発表の“苦悩の芸術”である、「血の轍」を語っていこうと思う。
よろしくお付き合いを。
「 多くの人があのアルバムを愛聴していると言う。
しかし、私にはその理由がよく判らない。
あのアルバムで歌っているような“苦しみ”を多くの人が愛聴するなんて・・。 」

ディラン自身にそう言わせたとおり、“愛の苦悩”のアルバムが「血の轍」だ。
72年にコロンビアとの契約が切れ、アサイラムと契約するも、「PLANET WAVES」と
「偉大なる復活(ライブ)」の2枚で、再びコロンビアに戻ってくる。
復帰第1弾は、エリック・ワイズバーグ(g)らと74年9月にニューヨークで録音されて、
テスト盤が完成するも、12月にミネアポリスの地元ミュージシャンを起用して
半数録音し直して、75年1月に発表された。
様々な憶測を呼んだアルバムである。
ユダヤの新年にあたる日(新年祭)の9月16日にレコーディングを行ったとか、
妻サラと別居したことも・・。
各曲の歌詞は、言われているほど難解ではない。 しかし・・。
辛い、とてつもなく辛いのだ。 しかもとてつもなくネガティブ。
この世の終わりともいうくらい。 いや、未練がましいくらい、みっともないのだ。
しかし、何度も聴くにつれ別の感覚も生じてくるのが、このアルバムの凄さでもある。
愛の苦悩を無数の感情へ拡大したかのような大きなブルースを感じるのだ。
Like A Cork Screw To My Heart コルク栓をしたみたいに詰まってしまった。
Ever Since We've Been Apart 俺達が別れてからというものは・・。
“きみは大きな存在(You're Big Girl Now)”を、妻サラの事を歌った曲だろうと
指摘されて、
「 違う。 この曲は特定の人の事を書いたわけではない。
そんな風に勝手に解釈するのは聴き手の想像力を制限する愚か者のする事だ。
過去の体験を歌ったものではなく、
これから体験する事に立ち向かう姿勢を歌ったものだ。
このアルバムを、私の“離婚”に関係があると書いた記事を読んだよ。
だけど、私たちが離婚したのは、その4年後だ。 」
それを“敢えて”否定している。 ムキになって強弁しているようにも。
万人に共通する普遍的な愛とその損失が歌われていると説明するように。
I Hope That You Can Hear 君に聴いて欲しい。
Hear Me Singing Through These Tears 俺が涙を流しながら歌うのを・・。

赤裸々。 ぶざまといってもいい。
これでも、「違う」というのか・・。
そうなのだろう。 ディランが言うのだから。
彼の歌に“体験”が反映しないようなことは、考えにくいが・・、
その関係が特定できたからといって、その歌の本質を理解したことにはならないのも、
ディランの芸術である。
ディランのラブソングは、なぜこんなにも美しいのか。
それは歌詞や言葉の重さとも、ちょっと違うように思う。
シュールなフレーズが次から次へ湧き出てくるが、常に口語のストーリーがある。
しかも、まるで言葉遊びを楽しむかのように、聴き手をもてあそぶのだ。
思うに、彼の曲の重さは、詩や言葉の重さではなく“その歌う重さ”にこそあるのだと。
この曲は、愛の喪失を男が嘆き、意地を張る歌。 決して珍しい歌ではない。
しかし、ディランが歌う事でその深刻度が増し、聴く者への浸透度も増幅する。
その歌う重さが、“恐ろしく繊細であり、恐ろしく骨太”でもあるといえるのだ。
アルバムそれぞれの楽曲は、ある意味、悲しみや辛さを超えてしまっていて、
苦悩を表出してはいるが、独特のクールネスが貫かれ、決して湿っぽくはない。
故に、弾き語りがベースのサウンドアレンジの超越した“軽やかさ”が、
やけにポップで、全体のムードを、とてつもない陰鬱さから救っているのだ。
表面的なマイナー調メロディーの美しさの奥底に在るブルースの源。
そこから発せられる、あらゆる苦悩と感情の万華鏡のような歌のアンソロジーが、
「血の轍」という“芸術”なのだ。

「 私は絵画のような作品を書こうとしたんだ。
一部分だけを見る事もできるし、全体を見る事もできる歌をね。
特に“Tangled Up In Blue(ブルーにこんがらがって)”で、
時間の概念を排除し、登場人物の人称を1人称から3人称まで変化させる。
その結果、聴き手には1人称の人物が話しているのか、
2人称、3人称の人物が話しているのか判らない。
しかし、全体を眺めれば誰が話しているのかどうでも良くなるわけだ。 」
半分言葉遊びのような歌詞だが、一人の男の半生が一人の女性との関わりの中で描かれる。
スケールを小さくした映画「フォレスト・ガンプ」のような話を思ったらいい。
デビュー前のディラン自身を彷彿させる「イースト・コーストに向かった“彼”」は、
そこで既婚の女性と出会うが、「少々乱暴に(A Little Too Much Force)」
彼女を離婚させる。その後、二人で西部へ向かうが、
「暗く悲しい夜(A Dark Sad Night)」に別れてしまう。
歩き去っていく彼に彼女は振り返り、「またいつか出会う(We'll Meet Again Someday)」
と予言する。
その後、彼は居場所や職を転々とし、その間いろいろな女性に出会うが、
彼女を忘れることができない(She Never Escaped My Mind)。
ある時、ビールを飲みに立ち寄ったトップレスバーで、そこで働く彼女に再会するが、
彼女は彼に対して「あなたの名前はなんだったかしら(Don't I Know Your Name?)」
と言う。 ここで彼女が彼の名前を本当に覚えていないのかは疑問だが、
その後二人がすぐに結ばれているところを見ると、彼女は働いている場所が場所だけに
そう言ったのだろうと思うのだが・・。
二人が結ばれるシーンは印象的だ。
彼女は「イタリアの詩人が13世紀に書いた詩集」を彼に渡すが、
その言葉の一つ一つが燃える石炭のように燃え上がり(Glowed Like Burnin' Coal)、
ページの一枚一枚から注ぎ出てくるのだ(Pourin' Off of Every Page)。
その後の詳しい経過は語られないが、
どうやら、彼は彼女と別れて荒んだ暮らしをしているらしい。
最後は混沌として意味不明の歌詞だけど、
何とかして彼女にもう一度会いたい(I Got To Get To Her Somehow)
と述べる彼は、やっぱり「ブルーにこんがらがって(Tangled Up In Blue)」いるのだ。
イーストコースト、グレートノースウッドからニューオーリンズと転々とする男の物語。
さながら、ディラン流ロードムービーだ。
でも、私はこう考える。
歌の“焦点”を明確にする為に、“誰に話しているのかどうでも良くなる”手法を取る。
矛盾する言葉をコンセプトに同居させるのが、ディラン芸術の核心でもある。
そのコンセプトが“やけに”リアルな歌詞も、どこかシュールな独自性を漂わす浮遊感
へと変化させる化学反応。 クールなのだけど、とてつもなく熱い。
ダミ声と土着的でアーシーな色彩感とのコントラスト。 実に“不思議な芸術”だ。

アルバム全体は、芸術的美しさの珠玉のラブソングで満ち溢れている。
私の好きな曲を、ちょっと書きますと・・。
“運命のひとひねり(Simple Twist Of Fate)”。
煌々としたネオンの奇妙なホテルにデートで入るような若いカップルの話だ。
“運命のひとひねり”が、彼から彼女を引き離す。 彼が目を覚ますと彼女の姿はない。
彼は言葉を喋るオウムと共に港を探すが、結局彼女は見つからない。
“運命のひとひねり”は、2度と彼と彼女を引き合わせることがないのだ。
同い年の若いカップルってのは、大抵彼女のほうが一足先に大人になってしまって、
結局別れてしまうというのは、誰にでも経験があるのでは・・。
“おれはさびしくなるよ(You're Gonna Make Me Lonsome When You Go)”。
実にストレートなタイトル。
ハーモニカとアコギを弾き鳴らして歌うディランの声は、初期のフォーク時代のようだ。
「君が行っちゃうと僕は寂しいよ」というキメのフレーズ。
センチな内容だが意外と淡々と歌われ、曲もあっさり終わる。 本当に寂しいのか・・。
“彼女にあったら、よろしくと(If You See Her, Say Hello)”。
「彼女にあったら伝えてよ。 よろしくと。 僕は元気だと。」と誰かに託す。
これまた別れた女性に対して未練のある男の歌だ。 妻サラにも届いたのだろうか。
別れた恋人の名前を聞くだけで、「“耳のスイッチ”を切るのを学ぶ」彼は、
自分でも認めているとおり「Too Sensitive(敏感すぎる)」のだ。
“嵐からの隠れ場所(Shelter From The Storm)”。
この世はしがないもの。 どこに行っても競争ばかりで疲れてしまう。
そんな時こそ、恋人からこういう風に言ってもらいたい。 男は救われるのだ。
「こっちへいらっしゃい。 私が嵐から身を守ってあげるわ。 癒してあげるね。」と。
しかし、愛ばかりじゃない。
70年代の“Like A Rolling Stone”と言っていい、“愚かな風(Idiot Wind)”。
いきなり4度のマイナーコードから放たれる怒りの矛先は、
政治家か、資産家か。 とにかく権力を持つ者に対して烈火のごとく攻撃する。
「君が歯を動かすたびに、“愚かな風”が吹く。」
「君は愚かだ。 まだ息の仕方を知っているというだけで奇蹟だ。」と実に辛らつに、
8分にも及ぶ、長大なストーリーが激しく歌われる。 アルバム最大のハイライトだ。
この“苦悩の芸術”は、同時期にニューヨークで産声をあげたパンク・ロックみたいに
ロックの歴史を動かす位置にあるアルバムではないだろう。
しかし、このアルバムで、ディランは60年代の若者のカリスマとしての伝道師から、
等身大の時代の優れた代弁者、表現者として変化することに成功したのだ。
思えば、私も幾度も失恋したが、よく聴いたものだ。
世界一みっともない男の、男にしかわからない、男の為のラブソング。
“雨のバケツ(Buckets Of Rain)”とは、“涙のバケツ”のことだろう。
失恋の悲しみにくれる聴き手(そして、おそらくディラン自身)に優しく語りかける。
人生は悲しい(Life Is Sad)。 人生はバカ騒ぎ(Life Is Bust)。
君ができることは、全て君がしなければならないことなのだ。
この言葉で、何度救われたことだろう・・。

Tangled Up In Blue ブルーにこんがらがって
Simple Twist Of Fate 運命のひとひねり
You're A Big Girl Now きみは大きな存在
Idiot Wind 愚かな風
You're Gonna Make Me Lonesome When You Go
おれはさびしくなるよ
Meet Me In The Morning 朝に会おう
Lily, Rosemary And The Jack Of Hearts
リリー、ローズマリーとハートのジャック
If You See Her, Say Hello 彼女にあったら、よろしくと
Shelter From The Storm 嵐からの隠れ場所
Buckets Of Rain 雨のバケツ
今年、一発目の記事は、ディランにしました。
(仙人様。 今年一年、“お顔”をお借りいたします。)
なんか自分の中では、今年はディランが“熱く”なるのではと思うんです。
特に理由はないんですが・・。
昨年末の紅白で、桑田さんが、いきなり出してきた新曲は“ディランもろ出し”
だったし。 考えれば、今年5月で70歳になる仙人様。
クラシック界における「3大“B”」と言ったら・・。
「 ベートーベン、バッハ、ブラームス 」
(これがオーストリアに行くと、ブラームスがブルックナーに変わるんですが)
ROCK界における「3大“B”」といえば、色々意見が分かれるとこでしょうが、
「 Beatles、Beach Boys、そして、Bob Dylan」 と私は思う。
それほど、ROCKを知る上、語る上で、ディランは必須科目である。
故にディランを語るには、フォーク・ロックの革命を起こした60年代の作品から
キッチリ語っておくことから始めるの常套手段なんだけど、私はディランで
一番好きなのが、70年代。 66年の大事故後の半隠居からカムバック以降、
型にハマらないROCKのスタイルを形成していき、新たなピークを迎えるという
開拓者としての仙人様に魅かれるのだ。 私も型にハマるのが嫌な方。
好きに語らせていただきたく思う。
「血の轍(わだち)」。 おどろおどろしいネーミングだ。
しかし巷や一般的には大傑作、70年代の最高傑作の呼び声も高い。
私は、ディランのような“天才”の作品に順位を付けてもあまり意味がないと思ってるが、
確かに、この収録曲の誉れ高さは、他の追随を寄せ付けない。
今宵は、75年発表の“苦悩の芸術”である、「血の轍」を語っていこうと思う。
よろしくお付き合いを。
「 多くの人があのアルバムを愛聴していると言う。
しかし、私にはその理由がよく判らない。
あのアルバムで歌っているような“苦しみ”を多くの人が愛聴するなんて・・。 」

ディラン自身にそう言わせたとおり、“愛の苦悩”のアルバムが「血の轍」だ。
72年にコロンビアとの契約が切れ、アサイラムと契約するも、「PLANET WAVES」と
「偉大なる復活(ライブ)」の2枚で、再びコロンビアに戻ってくる。
復帰第1弾は、エリック・ワイズバーグ(g)らと74年9月にニューヨークで録音されて、
テスト盤が完成するも、12月にミネアポリスの地元ミュージシャンを起用して
半数録音し直して、75年1月に発表された。
様々な憶測を呼んだアルバムである。
ユダヤの新年にあたる日(新年祭)の9月16日にレコーディングを行ったとか、
妻サラと別居したことも・・。
各曲の歌詞は、言われているほど難解ではない。 しかし・・。
辛い、とてつもなく辛いのだ。 しかもとてつもなくネガティブ。
この世の終わりともいうくらい。 いや、未練がましいくらい、みっともないのだ。
しかし、何度も聴くにつれ別の感覚も生じてくるのが、このアルバムの凄さでもある。
愛の苦悩を無数の感情へ拡大したかのような大きなブルースを感じるのだ。
Like A Cork Screw To My Heart コルク栓をしたみたいに詰まってしまった。
Ever Since We've Been Apart 俺達が別れてからというものは・・。
“きみは大きな存在(You're Big Girl Now)”を、妻サラの事を歌った曲だろうと
指摘されて、
「 違う。 この曲は特定の人の事を書いたわけではない。
そんな風に勝手に解釈するのは聴き手の想像力を制限する愚か者のする事だ。
過去の体験を歌ったものではなく、
これから体験する事に立ち向かう姿勢を歌ったものだ。
このアルバムを、私の“離婚”に関係があると書いた記事を読んだよ。
だけど、私たちが離婚したのは、その4年後だ。 」
それを“敢えて”否定している。 ムキになって強弁しているようにも。
万人に共通する普遍的な愛とその損失が歌われていると説明するように。
I Hope That You Can Hear 君に聴いて欲しい。
Hear Me Singing Through These Tears 俺が涙を流しながら歌うのを・・。

赤裸々。 ぶざまといってもいい。
これでも、「違う」というのか・・。
そうなのだろう。 ディランが言うのだから。
彼の歌に“体験”が反映しないようなことは、考えにくいが・・、
その関係が特定できたからといって、その歌の本質を理解したことにはならないのも、
ディランの芸術である。
ディランのラブソングは、なぜこんなにも美しいのか。
それは歌詞や言葉の重さとも、ちょっと違うように思う。
シュールなフレーズが次から次へ湧き出てくるが、常に口語のストーリーがある。
しかも、まるで言葉遊びを楽しむかのように、聴き手をもてあそぶのだ。
思うに、彼の曲の重さは、詩や言葉の重さではなく“その歌う重さ”にこそあるのだと。
この曲は、愛の喪失を男が嘆き、意地を張る歌。 決して珍しい歌ではない。
しかし、ディランが歌う事でその深刻度が増し、聴く者への浸透度も増幅する。
その歌う重さが、“恐ろしく繊細であり、恐ろしく骨太”でもあるといえるのだ。
アルバムそれぞれの楽曲は、ある意味、悲しみや辛さを超えてしまっていて、
苦悩を表出してはいるが、独特のクールネスが貫かれ、決して湿っぽくはない。
故に、弾き語りがベースのサウンドアレンジの超越した“軽やかさ”が、
やけにポップで、全体のムードを、とてつもない陰鬱さから救っているのだ。
表面的なマイナー調メロディーの美しさの奥底に在るブルースの源。
そこから発せられる、あらゆる苦悩と感情の万華鏡のような歌のアンソロジーが、
「血の轍」という“芸術”なのだ。

「 私は絵画のような作品を書こうとしたんだ。
一部分だけを見る事もできるし、全体を見る事もできる歌をね。
特に“Tangled Up In Blue(ブルーにこんがらがって)”で、
時間の概念を排除し、登場人物の人称を1人称から3人称まで変化させる。
その結果、聴き手には1人称の人物が話しているのか、
2人称、3人称の人物が話しているのか判らない。
しかし、全体を眺めれば誰が話しているのかどうでも良くなるわけだ。 」
半分言葉遊びのような歌詞だが、一人の男の半生が一人の女性との関わりの中で描かれる。
スケールを小さくした映画「フォレスト・ガンプ」のような話を思ったらいい。
デビュー前のディラン自身を彷彿させる「イースト・コーストに向かった“彼”」は、
そこで既婚の女性と出会うが、「少々乱暴に(A Little Too Much Force)」
彼女を離婚させる。その後、二人で西部へ向かうが、
「暗く悲しい夜(A Dark Sad Night)」に別れてしまう。
歩き去っていく彼に彼女は振り返り、「またいつか出会う(We'll Meet Again Someday)」
と予言する。
その後、彼は居場所や職を転々とし、その間いろいろな女性に出会うが、
彼女を忘れることができない(She Never Escaped My Mind)。
ある時、ビールを飲みに立ち寄ったトップレスバーで、そこで働く彼女に再会するが、
彼女は彼に対して「あなたの名前はなんだったかしら(Don't I Know Your Name?)」
と言う。 ここで彼女が彼の名前を本当に覚えていないのかは疑問だが、
その後二人がすぐに結ばれているところを見ると、彼女は働いている場所が場所だけに
そう言ったのだろうと思うのだが・・。
二人が結ばれるシーンは印象的だ。
彼女は「イタリアの詩人が13世紀に書いた詩集」を彼に渡すが、
その言葉の一つ一つが燃える石炭のように燃え上がり(Glowed Like Burnin' Coal)、
ページの一枚一枚から注ぎ出てくるのだ(Pourin' Off of Every Page)。
その後の詳しい経過は語られないが、
どうやら、彼は彼女と別れて荒んだ暮らしをしているらしい。
最後は混沌として意味不明の歌詞だけど、
何とかして彼女にもう一度会いたい(I Got To Get To Her Somehow)
と述べる彼は、やっぱり「ブルーにこんがらがって(Tangled Up In Blue)」いるのだ。
イーストコースト、グレートノースウッドからニューオーリンズと転々とする男の物語。
さながら、ディラン流ロードムービーだ。
でも、私はこう考える。
歌の“焦点”を明確にする為に、“誰に話しているのかどうでも良くなる”手法を取る。
矛盾する言葉をコンセプトに同居させるのが、ディラン芸術の核心でもある。
そのコンセプトが“やけに”リアルな歌詞も、どこかシュールな独自性を漂わす浮遊感
へと変化させる化学反応。 クールなのだけど、とてつもなく熱い。
ダミ声と土着的でアーシーな色彩感とのコントラスト。 実に“不思議な芸術”だ。

アルバム全体は、芸術的美しさの珠玉のラブソングで満ち溢れている。
私の好きな曲を、ちょっと書きますと・・。
“運命のひとひねり(Simple Twist Of Fate)”。
煌々としたネオンの奇妙なホテルにデートで入るような若いカップルの話だ。
“運命のひとひねり”が、彼から彼女を引き離す。 彼が目を覚ますと彼女の姿はない。
彼は言葉を喋るオウムと共に港を探すが、結局彼女は見つからない。
“運命のひとひねり”は、2度と彼と彼女を引き合わせることがないのだ。
同い年の若いカップルってのは、大抵彼女のほうが一足先に大人になってしまって、
結局別れてしまうというのは、誰にでも経験があるのでは・・。
“おれはさびしくなるよ(You're Gonna Make Me Lonsome When You Go)”。
実にストレートなタイトル。
ハーモニカとアコギを弾き鳴らして歌うディランの声は、初期のフォーク時代のようだ。
「君が行っちゃうと僕は寂しいよ」というキメのフレーズ。
センチな内容だが意外と淡々と歌われ、曲もあっさり終わる。 本当に寂しいのか・・。
“彼女にあったら、よろしくと(If You See Her, Say Hello)”。
「彼女にあったら伝えてよ。 よろしくと。 僕は元気だと。」と誰かに託す。
これまた別れた女性に対して未練のある男の歌だ。 妻サラにも届いたのだろうか。
別れた恋人の名前を聞くだけで、「“耳のスイッチ”を切るのを学ぶ」彼は、
自分でも認めているとおり「Too Sensitive(敏感すぎる)」のだ。
“嵐からの隠れ場所(Shelter From The Storm)”。
この世はしがないもの。 どこに行っても競争ばかりで疲れてしまう。
そんな時こそ、恋人からこういう風に言ってもらいたい。 男は救われるのだ。
「こっちへいらっしゃい。 私が嵐から身を守ってあげるわ。 癒してあげるね。」と。
しかし、愛ばかりじゃない。
70年代の“Like A Rolling Stone”と言っていい、“愚かな風(Idiot Wind)”。
いきなり4度のマイナーコードから放たれる怒りの矛先は、
政治家か、資産家か。 とにかく権力を持つ者に対して烈火のごとく攻撃する。
「君が歯を動かすたびに、“愚かな風”が吹く。」
「君は愚かだ。 まだ息の仕方を知っているというだけで奇蹟だ。」と実に辛らつに、
8分にも及ぶ、長大なストーリーが激しく歌われる。 アルバム最大のハイライトだ。
この“苦悩の芸術”は、同時期にニューヨークで産声をあげたパンク・ロックみたいに
ロックの歴史を動かす位置にあるアルバムではないだろう。
しかし、このアルバムで、ディランは60年代の若者のカリスマとしての伝道師から、
等身大の時代の優れた代弁者、表現者として変化することに成功したのだ。
思えば、私も幾度も失恋したが、よく聴いたものだ。
世界一みっともない男の、男にしかわからない、男の為のラブソング。
“雨のバケツ(Buckets Of Rain)”とは、“涙のバケツ”のことだろう。
失恋の悲しみにくれる聴き手(そして、おそらくディラン自身)に優しく語りかける。
人生は悲しい(Life Is Sad)。 人生はバカ騒ぎ(Life Is Bust)。
君ができることは、全て君がしなければならないことなのだ。
この言葉で、何度救われたことだろう・・。
疲れ果てて、朽ちた男の孤高のラブソング。
TIME OUT MY MIND BOB DYLAN

Love Sick
Dirt Road Blues
Standing In The Doorway
Million Miles
Tryin' To Get To Heaven
Till I Fell In Love With You
Not Dark Yet
Cold Irons Bound
Make You Feel My Love
Can't Wait
Highlands
仙人様、いや・・、神様降臨。 最初で最後という来日ライブ・ハウス・ツアー。
残念ながら、私は、あの狭い空間でディランを拝むことはできませんでしたが、
その圧倒的存在感といい、バンドの完成度の高さといい、セットも日によって
全く異なるメニューといい、賛辞の声の多さに、なんだか嬉しさを感じます。
「その時に歌いたい歌を、歌いたいように歌ってるんだろうなぁ・・」って。
やはり今、ディランを素通りできません。
今宵は、97年の晩年の大傑作「TIME OUT MY MIND」の話に、
よろしくお付き合いを。
まず、90年代前半のディランは、精彩を欠いたといわれる80年代のうっぷんを
晴らすように、精力的に活動しているように見えるんだけど、
実は、ほとんど“創作”活動はしていない。 書いていないんですよ。
90年に「UNDER THE RED SKY」を発表した後、トラディショナル・アルバムを
2枚続けて連作し、ベスト盤、ライブ盤などをコンスタントに発表し、
89年から続いている、「ネヴァー・エンディング・ツアー」も継続して、
92年には豪華ゲストを集めての30周年ライブ、94年にはMTVアンプラグド、
そしてウッドストック出演など、話題には事欠かなかったものの、
一時は、「もう新曲は書かない」と発言したとかで、物議を醸し出したり、
(その理由は、「もう何百曲と書いてきて、これ以上書いても皆が混乱するだけ」
とのことだが・・)
オリジナル曲による新作アルバムを全くリリースしないという状況が続いていた。

そこに7年ぶりのオリジナル・アルバムとして登場したのが、このアルバム。
自作自演。 シンガー・ソングライターとしてのしての復活作であり、
現在へ繋がる新たなディラン・ストーリーの序章ともなる重要なアルバムだ。
(ちなみに、97年度グラミー賞で、年間最優秀アルバムと、
最優秀コンテンポラリー・フォーク・アルバム。
“Cold Irons Bound”で、最優秀男性ロック・ボーカル部門で受賞している。)
プロデューサーはディランの80年代の代表作である「OH MERCY」を手掛けた、
U2やピーター・ガブリエルなどで手腕を発揮したダニエル・ラノワ。
「OH MERCY」は70年代までの栄華と比べれば、イマイチだった80年代において、
まさに起死回生となった89年の傑作だった。 今回再び彼の“幻想感”、
空間の“残響力”を借りて、この復活を見事に演出したのだった。
しかし、ダニエル・ラノアのプロデュースには、昔からのファンは抵抗があるようで。
「ディランの声にエフェクトをかけるなんて」とか、
「彼にオーヴァー・ダブはいらない」って感じで。
確かに大胆なアレンジだとは思いますが、 U2の音像が大好きな私にとっては、
ラノアとディランの“化学反応”の意外性の方を支持する。
はっきり言って、“遅れてきたファン”の私としては、ほとんど違和感はない。
音数の少ない控えめながらミステリアスで、艶のあるサウンドのせいか、
近年、野太くなってきたディランの声に、モヤがかかって凄みが増している感じ。

録音は南部サウンドの聖地の一つ、マイアミのクライテリア・スタジオ。
そのスタジオの専属バンド、ディキシー・フライヤーズのキーボーディストであり、
ライ・クーダーの「紫の峡谷」のプロデューサーで有名なジム・ディッキンソン
と、テキサスのベテラン・プレイヤーのオージー・マイヤーズがキーボードで参加。
他にもデューク・ロビラード、バッキー・バクスターなどカントリー・ロック系の
ギタリストを6人揃え、ドラムは名手ジム・ケルトナーとブライアン・ブレイドの
ツイン・ドラムス。 そして、ベースには、現在に至るまでバンドリーダーを
務める、トニー・ガーニエがまとめ上げる手堅い布陣。
渋めで通好みだけど、南部好き、ブルース好きでも納得する凄腕がディランを支える。
とはいえ、コテコテの南部色で塗り固めるんじゃなく、少し“緯度”を上げて、
カントリーやブルースをどこかクールでシャープに昇華できたのは、ラノアの
手腕が冴え渡った結果。 そして、「変わり続けよう」とするディラン自身の
強い意志と努力の成果。 このアルバムから、確信と自信が伝わってくるんです。
でも、暗いんですよ。 「もうお終いだ」みたいな。 そんなムードが全体を覆う。
いきなり“Love Sick”。 “恋煩い(わずらい)”ですもん。
「私は恋を煩ってる。 ひどいんだ。 君なんかに会わなきゃよかった。
もううんざりなんだ。 君のことを忘れようとして思い、また煩う・・」
恋に疲れ果てたディランの枯れた、いや朽ちた男のラブ・ソング。
このエフェクトが掛かったディランの声は、もう悲しみなど通り越して、
“無情感”すら感じる。 しかし、背筋がゾクゾクして、引きずり込まれそう
なんだけど、カッコいいのはどうしてなんだろ・・。

全体的に渋目だが、重苦しくてダーティーな質感が漂う曲が連なる。
“Dirt Road Blues”は、オールド・ロカビリー風。 久々にロックンロールする。
“Standing In The Doorway”は、カントリー・タッチの美しくスローなラブ・ソング。
“Million Miles”は、ジャズ・シンガーよろしく、90年代っぽいメタリック・ジャズ。
“Tryin' To Get To Heaven”では、ブルージーにきめ、唯一彼のハーモニカが聴ける。
“Cold Irons Bound”は、ムニャムニャした歌声と金属的ロック・グルーヴが絡み合う。
しかし、このアルバムには、晩年の名ラブ・ソング“Make You Feel My Love”がある。
ディランはピアノ一本で、“心のままに”、大人の男のラブ・ソングを歌う。
「 君の涙を乾かせてくれる人がそばにいないなら、
私が百万年でもずっと抱きしめていよう。
君を幸せにさせよう。 君の夢も叶えよう。
君に私の愛を感じ取ってもらうために・・。 」
実は、この曲はリリース前に、ビリー・ジョエルにプレゼントした曲だ。
(ビリーのグレイテスト・ヒッツVol.3のリリースにあたり、新曲を収録しようと
SONY側は考えていたが、当時ビリーは、クラシック音楽しか作曲してなかった。
そのことを耳にしたディランが、この曲のデモテープを渡し、ビリーに
歌ってもらおうと、聞かせたそうだ。)
ビリーの歌いっぷりも見事だったが、当の“作者”も、なかなか聴かせてくれる。
ありふれてる歌詞かもしれないけど、人生の喜怒哀楽を知り尽くした男でなきゃ、
こんな説得力あるラブ・ソングなんて歌えません。
そして極め付けは、ラストの超(長)大作“Highland”だ。
ディランは過去に、「BLONDE ON BLONDE」でアナログ片面を全て費やして、
“ローランドの悲しい目の乙女”をラストで締めくくったことがあった。
それでも11分。 「欲望」でも、“Joey”で11分におよぶ大作があった。
“Highland”は、それを遥かに超える16分半。 ディラン最長記録。
もともと、デビュー当時からトーキング・ブルースは得意としていたし、
ストーリテラー的才能は卓越したセンスを持つディラン。
このクソ長い物語でも、時に優しく、時に力強く、時に情熱的に。
若い時のような攻撃的かつシュールな言葉を嵐のようにぶつけるのではなく、
大作家の散文小説のような味わいと、ゆとりすら感じさせる詩の世界。
淡々と、まるで何かを悟った語りべのように語り綴る。
でも、彼がニール・ヤングを聴いていると、いつも誰かが音を下げろと
怒鳴られるらしい。 どこかのウェイトレスとの妙にリアルな長い会話も、
実体験からなのか、空想からなんだろうか。
長さや疲れを感じさせない、広いスケール感を持った曲で締め括られる。

どんなに愛に苦しみ、そして自分自身に疲れているか。
ある意味、ここでのディランの歌声は、聴きようによっては、“悪声”。
ひたすら、うめき声で訴えるばかりにも聴こえる。
しかし、この声も“アート(芸術)”に変えるパワーも兼ね備える。
枯れてなお、朽ちてなお。 疲労と腐朽の美学。
ディランは、今も歌い続けている。

Love Sick
Dirt Road Blues
Standing In The Doorway
Million Miles
Tryin' To Get To Heaven
Till I Fell In Love With You
Not Dark Yet
Cold Irons Bound
Make You Feel My Love
Can't Wait
Highlands
仙人様、いや・・、神様降臨。 最初で最後という来日ライブ・ハウス・ツアー。
残念ながら、私は、あの狭い空間でディランを拝むことはできませんでしたが、
その圧倒的存在感といい、バンドの完成度の高さといい、セットも日によって
全く異なるメニューといい、賛辞の声の多さに、なんだか嬉しさを感じます。
「その時に歌いたい歌を、歌いたいように歌ってるんだろうなぁ・・」って。
やはり今、ディランを素通りできません。
今宵は、97年の晩年の大傑作「TIME OUT MY MIND」の話に、
よろしくお付き合いを。
まず、90年代前半のディランは、精彩を欠いたといわれる80年代のうっぷんを
晴らすように、精力的に活動しているように見えるんだけど、
実は、ほとんど“創作”活動はしていない。 書いていないんですよ。
90年に「UNDER THE RED SKY」を発表した後、トラディショナル・アルバムを
2枚続けて連作し、ベスト盤、ライブ盤などをコンスタントに発表し、
89年から続いている、「ネヴァー・エンディング・ツアー」も継続して、
92年には豪華ゲストを集めての30周年ライブ、94年にはMTVアンプラグド、
そしてウッドストック出演など、話題には事欠かなかったものの、
一時は、「もう新曲は書かない」と発言したとかで、物議を醸し出したり、
(その理由は、「もう何百曲と書いてきて、これ以上書いても皆が混乱するだけ」
とのことだが・・)
オリジナル曲による新作アルバムを全くリリースしないという状況が続いていた。

そこに7年ぶりのオリジナル・アルバムとして登場したのが、このアルバム。
自作自演。 シンガー・ソングライターとしてのしての復活作であり、
現在へ繋がる新たなディラン・ストーリーの序章ともなる重要なアルバムだ。
(ちなみに、97年度グラミー賞で、年間最優秀アルバムと、
最優秀コンテンポラリー・フォーク・アルバム。
“Cold Irons Bound”で、最優秀男性ロック・ボーカル部門で受賞している。)
プロデューサーはディランの80年代の代表作である「OH MERCY」を手掛けた、
U2やピーター・ガブリエルなどで手腕を発揮したダニエル・ラノワ。
「OH MERCY」は70年代までの栄華と比べれば、イマイチだった80年代において、
まさに起死回生となった89年の傑作だった。 今回再び彼の“幻想感”、
空間の“残響力”を借りて、この復活を見事に演出したのだった。
しかし、ダニエル・ラノアのプロデュースには、昔からのファンは抵抗があるようで。
「ディランの声にエフェクトをかけるなんて」とか、
「彼にオーヴァー・ダブはいらない」って感じで。
確かに大胆なアレンジだとは思いますが、 U2の音像が大好きな私にとっては、
ラノアとディランの“化学反応”の意外性の方を支持する。
はっきり言って、“遅れてきたファン”の私としては、ほとんど違和感はない。
音数の少ない控えめながらミステリアスで、艶のあるサウンドのせいか、
近年、野太くなってきたディランの声に、モヤがかかって凄みが増している感じ。

録音は南部サウンドの聖地の一つ、マイアミのクライテリア・スタジオ。
そのスタジオの専属バンド、ディキシー・フライヤーズのキーボーディストであり、
ライ・クーダーの「紫の峡谷」のプロデューサーで有名なジム・ディッキンソン
と、テキサスのベテラン・プレイヤーのオージー・マイヤーズがキーボードで参加。
他にもデューク・ロビラード、バッキー・バクスターなどカントリー・ロック系の
ギタリストを6人揃え、ドラムは名手ジム・ケルトナーとブライアン・ブレイドの
ツイン・ドラムス。 そして、ベースには、現在に至るまでバンドリーダーを
務める、トニー・ガーニエがまとめ上げる手堅い布陣。
渋めで通好みだけど、南部好き、ブルース好きでも納得する凄腕がディランを支える。
とはいえ、コテコテの南部色で塗り固めるんじゃなく、少し“緯度”を上げて、
カントリーやブルースをどこかクールでシャープに昇華できたのは、ラノアの
手腕が冴え渡った結果。 そして、「変わり続けよう」とするディラン自身の
強い意志と努力の成果。 このアルバムから、確信と自信が伝わってくるんです。
でも、暗いんですよ。 「もうお終いだ」みたいな。 そんなムードが全体を覆う。
いきなり“Love Sick”。 “恋煩い(わずらい)”ですもん。
「私は恋を煩ってる。 ひどいんだ。 君なんかに会わなきゃよかった。
もううんざりなんだ。 君のことを忘れようとして思い、また煩う・・」
恋に疲れ果てたディランの枯れた、いや朽ちた男のラブ・ソング。
このエフェクトが掛かったディランの声は、もう悲しみなど通り越して、
“無情感”すら感じる。 しかし、背筋がゾクゾクして、引きずり込まれそう
なんだけど、カッコいいのはどうしてなんだろ・・。

全体的に渋目だが、重苦しくてダーティーな質感が漂う曲が連なる。
“Dirt Road Blues”は、オールド・ロカビリー風。 久々にロックンロールする。
“Standing In The Doorway”は、カントリー・タッチの美しくスローなラブ・ソング。
“Million Miles”は、ジャズ・シンガーよろしく、90年代っぽいメタリック・ジャズ。
“Tryin' To Get To Heaven”では、ブルージーにきめ、唯一彼のハーモニカが聴ける。
“Cold Irons Bound”は、ムニャムニャした歌声と金属的ロック・グルーヴが絡み合う。
しかし、このアルバムには、晩年の名ラブ・ソング“Make You Feel My Love”がある。
ディランはピアノ一本で、“心のままに”、大人の男のラブ・ソングを歌う。
「 君の涙を乾かせてくれる人がそばにいないなら、
私が百万年でもずっと抱きしめていよう。
君を幸せにさせよう。 君の夢も叶えよう。
君に私の愛を感じ取ってもらうために・・。 」
実は、この曲はリリース前に、ビリー・ジョエルにプレゼントした曲だ。
(ビリーのグレイテスト・ヒッツVol.3のリリースにあたり、新曲を収録しようと
SONY側は考えていたが、当時ビリーは、クラシック音楽しか作曲してなかった。
そのことを耳にしたディランが、この曲のデモテープを渡し、ビリーに
歌ってもらおうと、聞かせたそうだ。)
ビリーの歌いっぷりも見事だったが、当の“作者”も、なかなか聴かせてくれる。
ありふれてる歌詞かもしれないけど、人生の喜怒哀楽を知り尽くした男でなきゃ、
こんな説得力あるラブ・ソングなんて歌えません。
そして極め付けは、ラストの超(長)大作“Highland”だ。
ディランは過去に、「BLONDE ON BLONDE」でアナログ片面を全て費やして、
“ローランドの悲しい目の乙女”をラストで締めくくったことがあった。
それでも11分。 「欲望」でも、“Joey”で11分におよぶ大作があった。
“Highland”は、それを遥かに超える16分半。 ディラン最長記録。
もともと、デビュー当時からトーキング・ブルースは得意としていたし、
ストーリテラー的才能は卓越したセンスを持つディラン。
このクソ長い物語でも、時に優しく、時に力強く、時に情熱的に。
若い時のような攻撃的かつシュールな言葉を嵐のようにぶつけるのではなく、
大作家の散文小説のような味わいと、ゆとりすら感じさせる詩の世界。
淡々と、まるで何かを悟った語りべのように語り綴る。
でも、彼がニール・ヤングを聴いていると、いつも誰かが音を下げろと
怒鳴られるらしい。 どこかのウェイトレスとの妙にリアルな長い会話も、
実体験からなのか、空想からなんだろうか。
長さや疲れを感じさせない、広いスケール感を持った曲で締め括られる。

どんなに愛に苦しみ、そして自分自身に疲れているか。
ある意味、ここでのディランの歌声は、聴きようによっては、“悪声”。
ひたすら、うめき声で訴えるばかりにも聴こえる。
しかし、この声も“アート(芸術)”に変えるパワーも兼ね備える。
枯れてなお、朽ちてなお。 疲労と腐朽の美学。
ディランは、今も歌い続けている。
“天使のダミ声”、ディランがサンタ。
CHRISTMAS IN THE HEART BOB DYLAN

Here Comes Santa Claus
Do You Hear What I Hear?
Winter Wonderland
Hark The Herald Angels Sing
I'll Be Home For Christmas
Little Drummer Boy
The Christmas Blues
O' Come All Ye Faithful (Adeste Fideles)
Have Yourself A Merry Little Christmas
Must Be Santa
Silver Bells
The First Noel
Christmas Island
The Christmas Song
O' Little Town Of Bethlehem
考えてみたら、奇跡の英米No.1アルバムに輝いた「TOGETHER THROUGH LIFE」
から、わずか半年の間隔で発表されたのは、ディラン初の“まさかまさか”の
クリスマス・アルバムだ。 この貪欲な創作意欲には頭が下がります。
しかし、ここ最近の“仙人様”は、リバプールにライブで訪れた際に、
一般の観光客に混じって、ジョンの生家に行ったり、(なんか観光ツアーバス
にも、普通に乗ってたみたい。 それに誰も気がつかなかったようで・・。)
街を歩いてたら、若い警官に不審者として職務質問されたりと・・。
(あなたは“伝説”なんですよ。 名前言っても、信じてくれなかったようで・・。
もうそろそろ“徘徊”してもおかしくない歳なんですが・・。 68歳ですもん。
でも、なんかオーラみたいなものはもうないんかなぁ、全く・・。)
ほんとに笑わせてくれますが、今度はクリスマス・アルバムの発表・・。

何で、また? どうしちゃったんでしょう・・。
ただよく考えてみると。 釣鐘型の鼻したこてこてのユダヤ人顔してる
ディランは、1979年にユダヤ教からボーン・アゲイン・クリスチャンに
突然改宗。 いろいろ物議を醸し出したんだけど、聖書を学び直し、
より普遍的な人生観を見出して制作したアルバム「SLOW TRAIN COMING」は
賛否両論飛び交う話題に。 後の3作は「ゴスペル3部作」として認知されてる。
(「INFIDELS」では、またユダヤ教に改宗したなんて噂されたこともあった。
でも「異教徒」ってタイトルじゃ誤解もされるし、エルサレムの丘で
ひざまずく写真はいけません。 ますます誤解されます。)
その後の作品においても、キリスト教の影響が見え隠れする歌も書いている。
新生キリスト教に寝返ったディランがクリスマス・ソングを歌っても、
何の不思議もない。
しかし、この人は、歌いたい詩を書き、歌いたい曲を歌ってきた人。
とっても自然な人なんです。 みんなが言うほど、難しい人じゃないんです。
だから、「困ってる奴がいっぱいいる・・。 私の歌で少しでも救えるなら」と
サンタさんにもなるんです。 クリスマス・ソングだって歌っちゃいます。
(このCDの印税の全額が、永久的に食糧問題に取り組む団体に支払われる。
つまり、このCDを買ったら、それがそのまま募金されるワケだ。)
そんなディランのクリスマス・アルバム。 ということは・・。
たぶん、格式あるトラディショナル・ソングでも歌ってるんだろうなぁ・・。
渋く決めてるんだろうなぁ・・。 と思いきや、 曲目を見ると。
“サンタクロースがやってきた”に、 “ウィンター・ワンダーランド”に、
“天には栄え”に、 “リトル・ドラマー・ボーイ”に、 “牧人、羊を”に、
“あなたに楽しいクリスマスを”に、 “ザ・クリスマス・ソング”・・。
なんと定番中でベタベタのクリスマス・ソング集とは。
でも、表ジャケはなかなか渋い。 トラディショナルっぽいセンス。
おまけに、クリスマス・カード付き。 封筒付きでどっさり。
しかし、裏ジャケはコレ。

・・・。 何ですか、コレは。 ベティ・ページのセクシー・サンタ・・。
コレって、50年代のプレイメイトでは。 ほんと笑わせてくれます。
定番のクリスマス・ソングなんで、当然スペクター・サウンドを基本に、
しかも、その流れをしっかりと汲みながら、さらにそこから余分なものを
すべてを、そぎ落としたかのような極上のアレンジ。 しかも骨太。
さすがはプロデューサー、ジャック・フロスト。(ディランの変名です)
シャンシャンと、鈴の音が聞こえてきて、夢見るように美しいコーラスが響き、
ストリングスがやさしく震えて、雪の降りしきる美しい街の情景が浮かぶかの様。
思わず、シナトラやグロスビーの美声に酔いしれたい雰囲気。
そして、そこに満を持して飛び込んでくるのは・・。 あの声だ。 だみ声・・。
いや、ただのだみ声ではない。 還暦を優に超したディランの“しゃがれただみ声”だ。
しかし・・。 これもアリかなと。 とにかく楽しそうなんですもん。
聴いているうちに、味が出てくるんです。 これこそ、“天使のだみ声”だ。
かつては、“神の声”とまで、讃えられたディラン。
“老人の声”という、インパクトの強い“外観”に惑わされちゃいけませんよ。
純粋に耳を傾けてごらんなさい。 きっと伝わるはずです。
真剣勝負で“歌”を歌っているディランに気付くはずなんです。
それは、“Like A Rolling Stone”や“It's All Over Now, Baby Blue”とかに
向き合った“真面目さ”となんら変わっていない、全身全霊をかけた真摯な姿勢で、
これらのクリスマスの名曲に向き合っているんです。
力のかぎり、“しゃがれただみ声”を搾り出している。 シャウトしてるんですよ。

さて肝心の音だが、「MODERN TIMES」以来の好調さを維持していると思う。
「TOGETHER THROUGH LIFE」でのマイク・キャンベル(g)を除いた
バック・メンバーをここでも起用。 トニー・ガーニエ(b)を中心とする
バンドがしっかり支えているし、今回もロス・ロボスのデヴィッド・イダルゴの
アコーディオンやバイオリンの音色も、実にいいアクセントだ。
カリフォルニアにあるジャクソン・ブラウンが所有しているマスター・スタジオで
今年の5月にレコーディング。 曲の表情に応じて、バンドの演奏もディランの歌唱も、
時に厳かに、時に軽快に、クリスマス・ソングの王道を行く。
私が知らなかった歌も、けっこうあるし、
ディラン流クリスマス・ソング・スタンダード・コレクション
と言える作品ではないか。
しかし、子供が絶対に怖がるクリスマス・アルバムには違いないけど。

Here Comes Santa Claus
Do You Hear What I Hear?
Winter Wonderland
Hark The Herald Angels Sing
I'll Be Home For Christmas
Little Drummer Boy
The Christmas Blues
O' Come All Ye Faithful (Adeste Fideles)
Have Yourself A Merry Little Christmas
Must Be Santa
Silver Bells
The First Noel
Christmas Island
The Christmas Song
O' Little Town Of Bethlehem
考えてみたら、奇跡の英米No.1アルバムに輝いた「TOGETHER THROUGH LIFE」
から、わずか半年の間隔で発表されたのは、ディラン初の“まさかまさか”の
クリスマス・アルバムだ。 この貪欲な創作意欲には頭が下がります。
しかし、ここ最近の“仙人様”は、リバプールにライブで訪れた際に、
一般の観光客に混じって、ジョンの生家に行ったり、(なんか観光ツアーバス
にも、普通に乗ってたみたい。 それに誰も気がつかなかったようで・・。)
街を歩いてたら、若い警官に不審者として職務質問されたりと・・。
(あなたは“伝説”なんですよ。 名前言っても、信じてくれなかったようで・・。
もうそろそろ“徘徊”してもおかしくない歳なんですが・・。 68歳ですもん。
でも、なんかオーラみたいなものはもうないんかなぁ、全く・・。)
ほんとに笑わせてくれますが、今度はクリスマス・アルバムの発表・・。

何で、また? どうしちゃったんでしょう・・。
ただよく考えてみると。 釣鐘型の鼻したこてこてのユダヤ人顔してる
ディランは、1979年にユダヤ教からボーン・アゲイン・クリスチャンに
突然改宗。 いろいろ物議を醸し出したんだけど、聖書を学び直し、
より普遍的な人生観を見出して制作したアルバム「SLOW TRAIN COMING」は
賛否両論飛び交う話題に。 後の3作は「ゴスペル3部作」として認知されてる。
(「INFIDELS」では、またユダヤ教に改宗したなんて噂されたこともあった。
でも「異教徒」ってタイトルじゃ誤解もされるし、エルサレムの丘で
ひざまずく写真はいけません。 ますます誤解されます。)
その後の作品においても、キリスト教の影響が見え隠れする歌も書いている。
新生キリスト教に寝返ったディランがクリスマス・ソングを歌っても、
何の不思議もない。
しかし、この人は、歌いたい詩を書き、歌いたい曲を歌ってきた人。
とっても自然な人なんです。 みんなが言うほど、難しい人じゃないんです。
だから、「困ってる奴がいっぱいいる・・。 私の歌で少しでも救えるなら」と
サンタさんにもなるんです。 クリスマス・ソングだって歌っちゃいます。
(このCDの印税の全額が、永久的に食糧問題に取り組む団体に支払われる。
つまり、このCDを買ったら、それがそのまま募金されるワケだ。)
そんなディランのクリスマス・アルバム。 ということは・・。
たぶん、格式あるトラディショナル・ソングでも歌ってるんだろうなぁ・・。
渋く決めてるんだろうなぁ・・。 と思いきや、 曲目を見ると。
“サンタクロースがやってきた”に、 “ウィンター・ワンダーランド”に、
“天には栄え”に、 “リトル・ドラマー・ボーイ”に、 “牧人、羊を”に、
“あなたに楽しいクリスマスを”に、 “ザ・クリスマス・ソング”・・。
なんと定番中でベタベタのクリスマス・ソング集とは。
でも、表ジャケはなかなか渋い。 トラディショナルっぽいセンス。
おまけに、クリスマス・カード付き。 封筒付きでどっさり。
しかし、裏ジャケはコレ。

・・・。 何ですか、コレは。 ベティ・ページのセクシー・サンタ・・。
コレって、50年代のプレイメイトでは。 ほんと笑わせてくれます。
定番のクリスマス・ソングなんで、当然スペクター・サウンドを基本に、
しかも、その流れをしっかりと汲みながら、さらにそこから余分なものを
すべてを、そぎ落としたかのような極上のアレンジ。 しかも骨太。
さすがはプロデューサー、ジャック・フロスト。(ディランの変名です)
シャンシャンと、鈴の音が聞こえてきて、夢見るように美しいコーラスが響き、
ストリングスがやさしく震えて、雪の降りしきる美しい街の情景が浮かぶかの様。
思わず、シナトラやグロスビーの美声に酔いしれたい雰囲気。
そして、そこに満を持して飛び込んでくるのは・・。 あの声だ。 だみ声・・。
いや、ただのだみ声ではない。 還暦を優に超したディランの“しゃがれただみ声”だ。
しかし・・。 これもアリかなと。 とにかく楽しそうなんですもん。
聴いているうちに、味が出てくるんです。 これこそ、“天使のだみ声”だ。
かつては、“神の声”とまで、讃えられたディラン。
“老人の声”という、インパクトの強い“外観”に惑わされちゃいけませんよ。
純粋に耳を傾けてごらんなさい。 きっと伝わるはずです。
真剣勝負で“歌”を歌っているディランに気付くはずなんです。
それは、“Like A Rolling Stone”や“It's All Over Now, Baby Blue”とかに
向き合った“真面目さ”となんら変わっていない、全身全霊をかけた真摯な姿勢で、
これらのクリスマスの名曲に向き合っているんです。
力のかぎり、“しゃがれただみ声”を搾り出している。 シャウトしてるんですよ。

さて肝心の音だが、「MODERN TIMES」以来の好調さを維持していると思う。
「TOGETHER THROUGH LIFE」でのマイク・キャンベル(g)を除いた
バック・メンバーをここでも起用。 トニー・ガーニエ(b)を中心とする
バンドがしっかり支えているし、今回もロス・ロボスのデヴィッド・イダルゴの
アコーディオンやバイオリンの音色も、実にいいアクセントだ。
カリフォルニアにあるジャクソン・ブラウンが所有しているマスター・スタジオで
今年の5月にレコーディング。 曲の表情に応じて、バンドの演奏もディランの歌唱も、
時に厳かに、時に軽快に、クリスマス・ソングの王道を行く。
私が知らなかった歌も、けっこうあるし、
ディラン流クリスマス・ソング・スタンダード・コレクション
と言える作品ではないか。
しかし、子供が絶対に怖がるクリスマス・アルバムには違いないけど。
仙人の熱く激しいロックのドサ回り。
HARD RAIN BOB DYLAN

Maggie's Farm
One Too Many Mornings (いつもの朝に)
Stuck Inside Of Mobile
With The Memphis Blues Again
Oh, Sister
Lay, Lady, Lay
Shelter From The Storm (嵐からの隠れ場所)
You're A Big Girl Now (きみは大きな存在)
I Threw It All Away
Idiot Wind (愚かな風)
やっと開けました。 梅雨が。 遅い夏が、ようやくやって来ます。
しかし、今年はよく降ったもんです。
雨、 雨、 ちょっと止んで、 また雨。
時に、「激しい雨」。 と言えば、仙人のこのアツすぎるこのライブ盤だ。
それにしても、いいジャケだ。 メイク・アップした若き仙人。 いかすぜ。
彼の数あるライブ盤の中でも、最も熱く極端にルーズでラフな仙人がここにいる。
「ディランのROCKが聴きてぇ!」と思ったら、コレを聴けばいい。
ここでの仙人は、アコギで時代を代弁するような、弾き語りの姿などない。
テレキャスターを握り、コードも変え、原曲を破壊してまでも叫び、
暴走気味なまでに、血気盛んに疾走する。 とにかく、アツいのだ。
75年「欲望」を発表後、 このレコーディング・メンバーと気の知れた仲間と、
みんな一緒にツアーをしたいという“欲望”に駆られる。
有名、無名関係なく。 大所帯でゾロゾロと。 サーカス一座みたいに。
アメリカ建国200周年ともあって、仙人のアメリカ巡礼の旅が始まるのだ。
しかし、まるでジプシーのごとく、”予定は未定”。 小さい会場を中心に、
次のツアー先は行ってから決める。 告知も直前。 みんなビックリだ。
「さぁさぁ、ディランがこの街にやってくるよ」とまるでサーカス団みたいに。
これが、「ローリング・サンダー・レビュー」たる、ゲリラ的ドサ回りだ。
75年10月、建国の地であるマサチューセッツ州プリマスでスタート。
12月のNYマジソン・スクエア・ガーデンでお開きとなるが、(第1期)
翌76年4月に、映画「レナルド・アンド・クララ」の撮影目的で再開して、
(第2期、通称「ディスタント・サンダー・レビュー」)、資金繰りのために、
TVフィルムとライブ盤も制作され、5月23日のコロラド州立大学と、
5月16日のフォートワースでのステージを収めたのが、このライブ盤だ。
(TV放映もされたが、この発売日と同じ9月10日だった。)
ディランのテレキャスターの適当な(?)チューニングからして、 まともに、
リハーサルなんてやってないようなルーズな雰囲気のまま、ライブへ突入!
怒涛のように、「マギーの農場で働くのなんて、もうまっぴらだ!」と始める。
オリジナルのコードもバランスのヘッタクレもない。 やりたいようにやる。
ミック・ロンソン(g)の(やっぱり)微妙に合ってないチューニングのせいで、
スライドの音も甲高いエレキと、(ディラン込みでギタリストが5人もいる)
タンタンポンポンと軽いビートのドラムとで、嵐のように突っ走る。
この曲でこのライブの“破天荒”ぶりが伝わってくる。
アコーステックもバラードも、劇的に変える。 大胆に。 それも激しく。

「時代は変わる」の、“いつもの朝に”も、「ナッシュビル・スカイライン」の、
“I Threw It All Way”も、“Lay, Lady, Lay”も、オリジナルは、
ディラン特有な弾き語りの世界観を持ったラブ・ソングだった。
しかし、ここではラフでルーズなワイルド・ロックン・ロールに変貌する。
アバウトな空気感。 破壊こそエネルギー。 崩し方のハンパなさ。
傑作「血の轍」の名バラード“Shelter From The Storm”の変わり様は、
これこそ、ディラン流ハードロック。 あの美しい原曲がこうも変わるものか。
スライドの分厚いリフとエッジ鋭いエレキと、独特のグルーヴ感が絡み合い、
ディランのシャウトも絶叫ぎみに感情を爆発。 曲が進むにつれ更に上昇。
ドンチャン騒ぎのようなドライヴ感と、もの凄いエネルギーの演奏だ。
これも名曲の“きみは大きな存在”の、聴く者をも揺さぶる“未練がましい”
切実な愛の叫びも、この激演では、音をたてて見事なまでに崩れていき、
クソ長い歌詞を延々と、“得意”の語尾を上げ、ダミ声で絶叫しまくる
ラストの10分を超える鬼気迫る“愚かな風”で衝撃的に締めくくられる。
(この大所帯の主役かつベーシストだったロブ・ストーナーの複雑で緊張感
あふれるプレイは、この地獄絵図についていくだけのバンドの連中の
中でも特筆すべき。)
第1期ローリング・サンダー・レビューは、ブートレッグ・シリーズ第5弾で
現在は、2枚組で“オフィシャル”化して、聴くことができるが、
第2期は、あまり評判が良くなかったとはいえ、ルーズ度、ヘヴィー度では、
こっちが上。 4時間近くのごく一部しか収録されてなくとも、軍配はこっち。
仙人は、オリジナルをたえず、新しい曲に“変える”。 いや、ぶっ壊す。
スタジオでも、ライブでも関係なし。 思うがままに。 やりたいように。
そして、自らの創造性と才能のもと、新たに息吹を与える。
あくまで自然体。 これが、ディランなのだ。 それが、ROCKなのだ。
だからです。 私が、彼を“仙人”と呼んでるワケは。

Maggie's Farm
One Too Many Mornings (いつもの朝に)
Stuck Inside Of Mobile
With The Memphis Blues Again
Oh, Sister
Lay, Lady, Lay
Shelter From The Storm (嵐からの隠れ場所)
You're A Big Girl Now (きみは大きな存在)
I Threw It All Away
Idiot Wind (愚かな風)
やっと開けました。 梅雨が。 遅い夏が、ようやくやって来ます。
しかし、今年はよく降ったもんです。
雨、 雨、 ちょっと止んで、 また雨。
時に、「激しい雨」。 と言えば、仙人のこのアツすぎるこのライブ盤だ。
それにしても、いいジャケだ。 メイク・アップした若き仙人。 いかすぜ。
彼の数あるライブ盤の中でも、最も熱く極端にルーズでラフな仙人がここにいる。
「ディランのROCKが聴きてぇ!」と思ったら、コレを聴けばいい。
ここでの仙人は、アコギで時代を代弁するような、弾き語りの姿などない。
テレキャスターを握り、コードも変え、原曲を破壊してまでも叫び、
暴走気味なまでに、血気盛んに疾走する。 とにかく、アツいのだ。
75年「欲望」を発表後、 このレコーディング・メンバーと気の知れた仲間と、
みんな一緒にツアーをしたいという“欲望”に駆られる。
有名、無名関係なく。 大所帯でゾロゾロと。 サーカス一座みたいに。
アメリカ建国200周年ともあって、仙人のアメリカ巡礼の旅が始まるのだ。
しかし、まるでジプシーのごとく、”予定は未定”。 小さい会場を中心に、
次のツアー先は行ってから決める。 告知も直前。 みんなビックリだ。
「さぁさぁ、ディランがこの街にやってくるよ」とまるでサーカス団みたいに。
これが、「ローリング・サンダー・レビュー」たる、ゲリラ的ドサ回りだ。
75年10月、建国の地であるマサチューセッツ州プリマスでスタート。
12月のNYマジソン・スクエア・ガーデンでお開きとなるが、(第1期)
翌76年4月に、映画「レナルド・アンド・クララ」の撮影目的で再開して、
(第2期、通称「ディスタント・サンダー・レビュー」)、資金繰りのために、
TVフィルムとライブ盤も制作され、5月23日のコロラド州立大学と、
5月16日のフォートワースでのステージを収めたのが、このライブ盤だ。
(TV放映もされたが、この発売日と同じ9月10日だった。)
ディランのテレキャスターの適当な(?)チューニングからして、 まともに、
リハーサルなんてやってないようなルーズな雰囲気のまま、ライブへ突入!
怒涛のように、「マギーの農場で働くのなんて、もうまっぴらだ!」と始める。
オリジナルのコードもバランスのヘッタクレもない。 やりたいようにやる。
ミック・ロンソン(g)の(やっぱり)微妙に合ってないチューニングのせいで、
スライドの音も甲高いエレキと、(ディラン込みでギタリストが5人もいる)
タンタンポンポンと軽いビートのドラムとで、嵐のように突っ走る。
この曲でこのライブの“破天荒”ぶりが伝わってくる。
アコーステックもバラードも、劇的に変える。 大胆に。 それも激しく。

「時代は変わる」の、“いつもの朝に”も、「ナッシュビル・スカイライン」の、
“I Threw It All Way”も、“Lay, Lady, Lay”も、オリジナルは、
ディラン特有な弾き語りの世界観を持ったラブ・ソングだった。
しかし、ここではラフでルーズなワイルド・ロックン・ロールに変貌する。
アバウトな空気感。 破壊こそエネルギー。 崩し方のハンパなさ。
傑作「血の轍」の名バラード“Shelter From The Storm”の変わり様は、
これこそ、ディラン流ハードロック。 あの美しい原曲がこうも変わるものか。
スライドの分厚いリフとエッジ鋭いエレキと、独特のグルーヴ感が絡み合い、
ディランのシャウトも絶叫ぎみに感情を爆発。 曲が進むにつれ更に上昇。
ドンチャン騒ぎのようなドライヴ感と、もの凄いエネルギーの演奏だ。
これも名曲の“きみは大きな存在”の、聴く者をも揺さぶる“未練がましい”
切実な愛の叫びも、この激演では、音をたてて見事なまでに崩れていき、
クソ長い歌詞を延々と、“得意”の語尾を上げ、ダミ声で絶叫しまくる
ラストの10分を超える鬼気迫る“愚かな風”で衝撃的に締めくくられる。
(この大所帯の主役かつベーシストだったロブ・ストーナーの複雑で緊張感
あふれるプレイは、この地獄絵図についていくだけのバンドの連中の
中でも特筆すべき。)
第1期ローリング・サンダー・レビューは、ブートレッグ・シリーズ第5弾で
現在は、2枚組で“オフィシャル”化して、聴くことができるが、
第2期は、あまり評判が良くなかったとはいえ、ルーズ度、ヘヴィー度では、
こっちが上。 4時間近くのごく一部しか収録されてなくとも、軍配はこっち。
仙人は、オリジナルをたえず、新しい曲に“変える”。 いや、ぶっ壊す。
スタジオでも、ライブでも関係なし。 思うがままに。 やりたいように。
そして、自らの創造性と才能のもと、新たに息吹を与える。
あくまで自然体。 これが、ディランなのだ。 それが、ROCKなのだ。
だからです。 私が、彼を“仙人”と呼んでるワケは。
アコギで初めてロックした凄い人。
BRING IT ALL BACK HOME BOB DYLAN

Subterranean Homesick Blues
She Belongs To Me
Maggie's Farm
Love Minus Zero/No Limit
Outlaw Blues
On The Road Again
Bob Dylan's 115th Dream
Mr. Tambourine Man
Gates Of Eden
It's Alright, Ma (I'm Only Bleeding)
It's All Over Now, Baby Blue
ボブ・ディランって、どんな人?って聞かれたら、私はタイトル名のように答えてる。
簡単に言えばの話。 もう少し言うと、ビートルズがアメリカに上陸したことに、
刺激を受け、(この後、そのビートルズがディランの影響を受ける。 特にジョン。)
フォークとロックンロールを交配させ、フォーク・ロックの第一人者となって、
その歴史、文化、またはアーチストに至るまで、多大な影響を及ぼし、
時代の流れに関わらず、今日に至るまで、ずっと歌い続けている。
私は、この人をロックの仙人だと思ってる。 とにかく、スンゴい人なのだ。
カーペンターズの記事で、“敷居が低い”とか何とか書いたけど、
逆に、敷居が高いっていうか、とっつきにくいっていうのかなぁ・・、
分厚い本に果敢に挑もうとトライするも、途中で断念してしまいそうっていうかな・・。
そんな人も多いんじゃないかなぁ。 なんか難しそうだし。
でも、やっぱロックを知るためには、不可欠な最重要人物なんですよ、この人。
とはいえ、前もって言っとくと、私もそんなにディランのこと知ってるわけではなくて。
アルバムだって、たぶん半分くらいしか聴いてないし、ブートレッグ・シリーズなんて、
まともに聴いちゃいない。 5段階で言ったら、レベル3くらいがいいとこ。
だから生意気な顔して、ディランうんぬんなど語れないのが正直なとこですけど・・。
自称“レベル3”の私なりのディランの話。 よろしく、踏まえてお付き合いを。
難しくないですよ、ディランって。 難しく考えてるだけ。 難しく聴いてるだけ。
頭で聴こうとするからダメなの。 「何を言おうとしてる」だの、「真意は何」とか。
そうやって聴いたらダメ。 言葉も多いし。 日本人なんだから、やっぱ難しい。
音から入るべし。 歌詞の内容とか背景は後からでいい。 自然に分かってくる。
確かに、若い頃には反体制だの反社会だの、時にはキリスト教も歌ってきたけど、
思って振り返ると、その時に歌いたいことを曲にして、ただひたすら歌ってきた。
それをず~と続けてきた。 計算とかアジテーションとか、な~んもない。
気づけば、かっこ悪い男のラヴソングばっか、歌ってたりもするわけですよ。
それだけの人なんです。 ディランって。
ただ、ちょっと時間はかかるかも。 「なんかいいなぁ~って」って思うの。
“声”自体に特徴があるし、独特の歌回しや、節回しを変形させる歌い方に、
(たぶん、ワザとです) いまだに抵抗がある人も多いし。
私は、83年の「INFIDELS」で入門したんで、割と抵抗なく入っていけたんですが。
とは言っても、85年の“We Are The World”で、
「♪We Are The World~」の大合唱に混じって、彼の独特のクセのある、
ヴォーカルがカブるとこなんかは、レイ・チャールズの圧倒的な歌唱力と比べて、
当時は「・・・」って思ったもんですが・・。
でも、その内分かってくるんです。 だんだんと。 ジワジワと。
ディランって、ほんとに歌が上手い人なんだってことが。
曲によって、歌い方はもちろん、声色まで変えて歌ってるんですよ、この人は。
なんて美しいメロディを、なんと美しい声で歌ってるんだろうって曲もあるんです。
私が、ディランの数ある作品の中で一番好きなこのアルバムに入っている、
“Love Minus Zero/No Limit”なんて、初めて聴いた時は耳を疑ってしまうほど。
「えっ!? これ、ディランが歌ってるの?」って。 可憐なディランなんて。
さりげないんだけど、なんて美しくて、なんて切ないフレーズなんだろう。
たぶんこの曲も、湧いて出てくる情景とメロディを、そのまま綴っただけなんでしょう。
恐るべし才能です。
ディランの革新性は、ノッケの“サブタレニアン・ホームシック・ブルース”で爆発する。
この曲で、ディランはフォークとロックを合体させる。 そしてスパーク!
アコギからエレキに足を突っ込んだ瞬間だ。 それは先鋭かつ衝撃的な瞬間だ。
(ブートレッグ・シリーズの、フル・アコースティックでもロック全快。 スゲェ~よ。)
言葉や単語を書いた紙を、曲に合わせてバンバンめくっていくビデオが有名だけど、
(世界初のPVって言われてる。) 文体、小節、改行まるで無視。 こりゃ、ラップだ。
やたら早口でまくしたて、息継ぎを多用して、リズミカルに発音する。 しかし、
ディランで一番好きな曲なのに、いまだかつて、何が言いたいんだかわからない・・。
このアルバムは、A面がエレキ、B面がフォークと、まだ中途半端な手探り状態で、
試みた作品なんだけど、楽曲群の素晴らしさで一気に聴かせてしまう。
「農場で働くのなんてもう御免だ」と叫ぶも、次じゃ、誠実な彼女に微笑みかける。
“115の夢”じゃ、出だしをミスって吹き出してしまったテイクもそのまま入ってるし、
バーズがビートルズっぽくさせて大ヒットさせた“Mr.タンブリン・マン”も、
どっこいディランのオリジナルだし、 「もうすべては終わったんだよ」とアコギと
ハーモニカで締める無駄のない流れ。 う~ん。 素晴らしい。
現在67歳の彼。 (24日には、68歳の誕生日だ!)
この前、33枚目のオリジナル「TOGETHER THROUGH LIFE」が
英、米でNO.1になって、(英じゃ40年振りだって! 有り得ないよ。)
まだまだ、“伝説”は生き続けてる。 これは、スゴイことです。
「生まれるべき“家”に向かう旅をしてるんだ。 いつも前に進むことが大事。」
“時代は変わるんだ”って、歌ってるのに、 本人は、ちっとも変わらずじまい。
やっぱ、仙人ですよ。 参りました。

Subterranean Homesick Blues
She Belongs To Me
Maggie's Farm
Love Minus Zero/No Limit
Outlaw Blues
On The Road Again
Bob Dylan's 115th Dream
Mr. Tambourine Man
Gates Of Eden
It's Alright, Ma (I'm Only Bleeding)
It's All Over Now, Baby Blue
ボブ・ディランって、どんな人?って聞かれたら、私はタイトル名のように答えてる。
簡単に言えばの話。 もう少し言うと、ビートルズがアメリカに上陸したことに、
刺激を受け、(この後、そのビートルズがディランの影響を受ける。 特にジョン。)
フォークとロックンロールを交配させ、フォーク・ロックの第一人者となって、
その歴史、文化、またはアーチストに至るまで、多大な影響を及ぼし、
時代の流れに関わらず、今日に至るまで、ずっと歌い続けている。
私は、この人をロックの仙人だと思ってる。 とにかく、スンゴい人なのだ。
カーペンターズの記事で、“敷居が低い”とか何とか書いたけど、
逆に、敷居が高いっていうか、とっつきにくいっていうのかなぁ・・、
分厚い本に果敢に挑もうとトライするも、途中で断念してしまいそうっていうかな・・。
そんな人も多いんじゃないかなぁ。 なんか難しそうだし。
でも、やっぱロックを知るためには、不可欠な最重要人物なんですよ、この人。
とはいえ、前もって言っとくと、私もそんなにディランのこと知ってるわけではなくて。
アルバムだって、たぶん半分くらいしか聴いてないし、ブートレッグ・シリーズなんて、
まともに聴いちゃいない。 5段階で言ったら、レベル3くらいがいいとこ。
だから生意気な顔して、ディランうんぬんなど語れないのが正直なとこですけど・・。
自称“レベル3”の私なりのディランの話。 よろしく、踏まえてお付き合いを。
難しくないですよ、ディランって。 難しく考えてるだけ。 難しく聴いてるだけ。
頭で聴こうとするからダメなの。 「何を言おうとしてる」だの、「真意は何」とか。
そうやって聴いたらダメ。 言葉も多いし。 日本人なんだから、やっぱ難しい。
音から入るべし。 歌詞の内容とか背景は後からでいい。 自然に分かってくる。
確かに、若い頃には反体制だの反社会だの、時にはキリスト教も歌ってきたけど、
思って振り返ると、その時に歌いたいことを曲にして、ただひたすら歌ってきた。
それをず~と続けてきた。 計算とかアジテーションとか、な~んもない。
気づけば、かっこ悪い男のラヴソングばっか、歌ってたりもするわけですよ。
それだけの人なんです。 ディランって。
ただ、ちょっと時間はかかるかも。 「なんかいいなぁ~って」って思うの。
“声”自体に特徴があるし、独特の歌回しや、節回しを変形させる歌い方に、
(たぶん、ワザとです) いまだに抵抗がある人も多いし。
私は、83年の「INFIDELS」で入門したんで、割と抵抗なく入っていけたんですが。
とは言っても、85年の“We Are The World”で、
「♪We Are The World~」の大合唱に混じって、彼の独特のクセのある、
ヴォーカルがカブるとこなんかは、レイ・チャールズの圧倒的な歌唱力と比べて、
当時は「・・・」って思ったもんですが・・。
でも、その内分かってくるんです。 だんだんと。 ジワジワと。
ディランって、ほんとに歌が上手い人なんだってことが。
曲によって、歌い方はもちろん、声色まで変えて歌ってるんですよ、この人は。
なんて美しいメロディを、なんと美しい声で歌ってるんだろうって曲もあるんです。
私が、ディランの数ある作品の中で一番好きなこのアルバムに入っている、
“Love Minus Zero/No Limit”なんて、初めて聴いた時は耳を疑ってしまうほど。
「えっ!? これ、ディランが歌ってるの?」って。 可憐なディランなんて。
さりげないんだけど、なんて美しくて、なんて切ないフレーズなんだろう。
たぶんこの曲も、湧いて出てくる情景とメロディを、そのまま綴っただけなんでしょう。
恐るべし才能です。
ディランの革新性は、ノッケの“サブタレニアン・ホームシック・ブルース”で爆発する。
この曲で、ディランはフォークとロックを合体させる。 そしてスパーク!
アコギからエレキに足を突っ込んだ瞬間だ。 それは先鋭かつ衝撃的な瞬間だ。
(ブートレッグ・シリーズの、フル・アコースティックでもロック全快。 スゲェ~よ。)
言葉や単語を書いた紙を、曲に合わせてバンバンめくっていくビデオが有名だけど、
(世界初のPVって言われてる。) 文体、小節、改行まるで無視。 こりゃ、ラップだ。
やたら早口でまくしたて、息継ぎを多用して、リズミカルに発音する。 しかし、
ディランで一番好きな曲なのに、いまだかつて、何が言いたいんだかわからない・・。
このアルバムは、A面がエレキ、B面がフォークと、まだ中途半端な手探り状態で、
試みた作品なんだけど、楽曲群の素晴らしさで一気に聴かせてしまう。
「農場で働くのなんてもう御免だ」と叫ぶも、次じゃ、誠実な彼女に微笑みかける。
“115の夢”じゃ、出だしをミスって吹き出してしまったテイクもそのまま入ってるし、
バーズがビートルズっぽくさせて大ヒットさせた“Mr.タンブリン・マン”も、
どっこいディランのオリジナルだし、 「もうすべては終わったんだよ」とアコギと
ハーモニカで締める無駄のない流れ。 う~ん。 素晴らしい。
現在67歳の彼。 (24日には、68歳の誕生日だ!)
この前、33枚目のオリジナル「TOGETHER THROUGH LIFE」が
英、米でNO.1になって、(英じゃ40年振りだって! 有り得ないよ。)
まだまだ、“伝説”は生き続けてる。 これは、スゴイことです。
「生まれるべき“家”に向かう旅をしてるんだ。 いつも前に進むことが大事。」
“時代は変わるんだ”って、歌ってるのに、 本人は、ちっとも変わらずじまい。
やっぱ、仙人ですよ。 参りました。
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