永遠なる“お洒落ポップス”でも、実は異端派。
THE LOVE SONGS OF BURT BACHARACH

I Say A Little Prayer 小さな願い ‐ Aretha Franklin
Do You Know The Way To San Jose
サン・ホセへの道 ‐ Dionne Warwick
I Just Don't Know What To Do With Myself
心は乱れて - Dusty Springfield
Raindrops Keep Fallin' On My Head
雨にぬれても - B.J Thomas
What The World Needs Now
世界は愛を求めてる - Jackie DeShannon
The Look Of Love 恋の面影 - Sergio Mendes
What's New Pussycat
何かいいことないか仔猫チャン - Tom Jones
Baby It's You ベイビー・イッツ・ユー - The Shirelles
Magic Moments マジック・モーメンツ - Perry Como
Make It Easy On Yourself 涙でさようなら - Jerry Butler
Wishin' And Hopin' ウィッシン・アンド・ホッピン
- Dusty Springfield
You'll Never Get To Heaven (If You Break My Heart)
ユール・ネヴァー・ゲット・トゥ・ヘブン - The Stylistics
Arthur's Theme (Best That You Can Do)
ニューヨーク・シティ・セレナーデ - Christopher Cross
(There's)Always Something There To Remind Me
僕はこんなに(恋のウエイト・リフティング) - Naked Eyes
Walk On By ウォーク・オン・バイ - Isaac Hayes
Anyone Who Had A Heart 恋のハート - Luther Vandross
On My Own オン・マイ・オウン
- Patti Labelle / Michael McDonald
This House Is Empty Now デイス・ハウス・イズ・エンプティ・ナウ
- Elvis Costello / Burt Bacharach
4月も半ば。
ポカポカ。 すっかり春です。
ただ。
仕事の関係で生活リズムが変わってしまってしまい、
このブログとじっくり向き合う時間も取りにくくなってしまいまして・・。
でも、ゆっくりゆっくり。
筆は進めて参ろうかなと思っております。
こんな、思うように事が運ばない時、うまくいかない時、
気分転換によく聞いてる音楽を変えたくなりませんでしょうか。
最近は、じっくり音楽を聴きこめる時間も少なくなってきてるんですが、
私自身、
ずっと同じ音楽ばかり聴いてられない性分っていうのか、
けっして嫌いになるとか、
飽きがくるとかじゃないんだけど、
なんか気分を変えたくなるような・・。
そんな時に、この人の作品を聴くことがあります。
バート・バカラック。
ロック登場以降の半世紀、
アメリカのポピュラー音楽の世界において、唯一、
常にトップに立ち続けることのできた史上最高の個性派コンポーザー。
彼の偉大なる“作品”は、
世代やジャンルを越えて、今も愛され続けています。
今宵は、偉大なるバート・バカラックの魅力を語りたく思います。
また長くなりそうですが、
よろしくお付き合いを。

1928年にミズリー州カンザスに生まれ、
後にニューヨークに移り、ニューヨーク育ち。
今年で82歳。 しかも現役です。
(残念ながら、先の来日公演は延期されましたが)
これまで書いた曲は900曲以上。
全米チャートのトップ40にチャート・インしたのは、70曲余り。
アイドルものから、ロックやR&B、はたまた映画音楽にミュージカルなど、
何でも書きこなす器用な作曲家であり、
アレンジもこなすコンポーザーです。
ただバカラックは、その器用さが故に、
ロックの世界では、評価は最悪。
こ洒落たアレンジと甘いメロディが、
“奴ら”には、どうも鼻に付くんでしょうか、
あまりにも商業的(売れ線狙い)であるといった、
レッテルも彼に付いてしまってます。
しかし、どの作品にも彼の個性が見事に刻み込まれて、
その曲はジャンルの壁を超えて、世代の壁を越えて、
幅広いアーティスト達によって、今もなお歌われています。
彼の作品には、どんなアレンジを施されても“負けない力”。
主張できる曲の力。
いわゆる、「作品力」が備わっているんです。
彼に影響を与えたのは、
デイジー・ガレスピーやチャーリー・パーカーなど、
バップ全盛期の革新的なジャズが大きいみたいだが、
それだけじゃなく、もう一人、彼を音楽の世界に導いたのは、
あの有名なバレエ音楽「ボレロ」の作曲者であり、
「展覧会の絵」を編曲した天才ラヴェルでした。
近代クラシック音楽の世界において、
常に革新的なサウンドを追求し続けたフランスの天才作曲家だ。
かたやジャズの革新性、かたやクラシックの革新者に憧れることで、
彼は音楽の世界に飛び込んだわけです。
故に彼がポピュラー音楽の革新者に成り得るのもわかります。
また、彼の築き上げる バカラック・サウンドの独自性は、
よくフィル・スペクターの築き上げた
ウォール・オブ・サウンド(音の壁)と引き合いに出されるけど、
スペクターのような楽器や音声の積み上げによる分厚い音づくりとは、
全く異なり、意表をついた間(リズム)と意表をついた
楽器の使い方がその最大の特徴で、
特にフリューゲル・ホーンの使い方やセンスの良さは、
その象徴と言っていいし、
中南米のサウンド(ボサノヴァやマリアッチなど)を
いち早くポップスに取り入れた
ワールド・ミュージック指向の元祖とも言える存在でもある。
ポップスの世界で、誰もやってないことに取り組んでいたのも、
バカラックだった。
バカラックの曲は、実に親しみやすく、
聴く者を和ませる不思議な魅力を持ってる。
いわゆる、バカラック・マジックと呼ばれてるものだ。
しかし、彼がこの世界でトップでいられたのは、
けっして彼が大衆的で親しみやすいポップスばかり追求していたからではなく、
逆に彼はポピュラー音楽の世界において、
常に“異端派”だった。
あのように当時としては、常に革新的な手法を用いることで、
異端派と呼ばれる存在であることこそ、
彼が未だにトップ・クリエーターであり続ける
理由なんじゃないかと思う。
ただ、彼のヒット曲に対して音楽業界の評価は今ひとつでした。
そこで、彼は作曲家として、一人前の評価を得るため、
ミュージカルの作曲にも挑戦する。
68年に、ブロードウェイの人気作家ニール・サイモン脚本の
「プロミス・プロミス」で、彼はこの作品でグラミー賞を受賞。
劇中歌の"I'll Never Fall In Love Again"が、
ディオンヌ・ワーウィックらの歌によって世界的な大ヒットになって、
いよいよ一流作曲家の仲間入りを果たすことになるし、
彼はこの頃同時に、映画音楽の世界でも活躍し始め、
「何かいいことないか子猫チャン」(’65)、
「007/カジノ・ロワイヤル」(’67)、「失われた地平線」(’73)など手掛ける。
そしてなんと言っても、
才能開花の礎、B.J トーマス が歌った、
“Raindrops Keep Fallin' On My Head”だ。
69年にポール・ニューマンらが主演した「明日に向かって撃て」の劇中で
使用されて、アカデミー作曲賞、歌曲賞を受賞、
アメリカではNo.1になり、世界的にも大ヒットした。

69年というのは、サイケ全盛の時代。
ヒッピーが出現し、若者達の音楽が生まれる。
ベトナム戦争の真っ只中、その時代の半分以上の若者達、
そして大人達にとっては、重苦しい時代。
そんな中に、この“雨にぬれても”が出てきた。
ラジオで流れるこの小洒落たメロディが、
泥沼の中のようなロック世界の中に救世主のように癒した。
髪が長くて、どこか、ブッ飛んでるような連中ばかりに
やられてばかりだったポップス・ファンや大人達が生みだした
“真のヒット曲”だったんではないかと思う。
今回、数あるバカラック作品集の中でも、
この英国編集の作品集は、やや異彩を放つ。
(一番いい作品集は、
「THE LOOK OF LOVE」のアメリカ仕様の50曲入りの3CD。
選曲もベストだし、初心者でも耳馴染みのある曲が多いんではないかな)
どれも大体、ハル・デヴィットとコンビを組んでた
60年代の黄金期の曲がメインに組み込まれてるのが多いんだけど、
これは、コンビ解消後の80年代以降のヒット曲や
アーチストがカバーした曲の割合が多く収録されてるのが特徴。
ある意味、マニアックな内容。
シレルズの“Baby It's You”を、ビートルズがカバーしてるけど、
元を正せば、バカラックだし、
ダスティ・スプリングフィールドで有名な“恋の面影”も、
ここでは、セルジオ・メンデスのサルサ・バージョンの方で変化球を。
あの“Walk On By”も、ディオンヌ・ワーウィックが歌う“定番”じゃなくて、
故アイザック・ヘイズのR&Bバージョンで入れて、チェンジアップさせる。
(どうせなら、魔球並みのストラングラースのパンク・バージョンなら最高)
サンディ・ショウで有名なキャッチーな“恋のウェイト・リフティング”も、
(この邦題は、発売したのが東京五輪の時とバッテングしたのもあって、
日本の重量上げにメダルの期待と宣伝を込めて、
付けられたと言うけれど・・)
ここでは、83年にネイキッド・アイズが、邦題は“僕はこんなに”で、
スマッシュ・ヒットさせたテクノ・バージョンで80'sマニアを喜ばせる。
ただここには、
バカラック作品集に入ってなければならない曲が入ってない。
(レーベルや権利の関係もあるだろうけど)
カーペンターズの“(They Long To Be)Close To You 遥かなる影”だ。

この曲は、作詞をしたハル・デヴィッドが、
A&Mの副社長のジャズ・トランペッターのハープ・アルバートに提供したが、
ハープは曲を渡された時、「この詩は女々しい」と言って、
レコーディングを拒んでいたそうだ。
そこで、所属しているカーペンターズにピッタリじゃないかとの提案で、
兄のリチャードに譲渡することにした。
しかし、最初、兄のリチャードは、
「こんな曲をやるのかぁ・・」と言っていたそうで。
「これは小学生が歌うような曲じゃないか」と、
彼も全然乗り気じゃなかったそうだ。
結果的には、カーペンターズがクールに仕上げて、
彼らの代表曲までになるんだけど、
甘くて、くすぐったくなるようなメロディだけど、
カレンの心に響くやさしい歌声は、世代を超えて響く。
バカラックを語る上で、重要な人物が2人いる。

まずは、黄金期のパートナーとなる作詞家のハル・デヴィッド。
売れなかった下積み時代に、クラブの伴奏をしながら
細々と活動していた56年ごろに知り合ってから、
73年くらいまでコンビを組んで、数々の名曲を誕生させた。
あのドイツの歌姫マレーネ・デイトーリッヒに見出されて、
バンドの指揮者という定職を得たバカラックは、生活が安定しただけでなく、
その知名度が広がったことで、再び作曲家としての活動が可能になり、
ハル・デヴィッドともコンビも出来上がったことから、
いよいよその活動が本格化します。
そして、もう一人が、
黒人天才女性シンガーであるディオンヌ・ワーウィックだ。
まさに申し子。
黄金期のバカラック・サウンドの中心は彼女だった。
(ちなみに、あのホイットニー・ヒューストンのおばさんのあたる人ですね)
彼女は、音楽学校を卒業していた為、
譜面を所見で読める才能を買われて、
バカラックとハル・デイヴィッドのコンビの曲を、彼女が歌って、
彼等の売り込み用のサンプルに、
彼女のボーカルを使ったことからサクセス・ストーリーが始まる。
ドリフターズのレコーディングに、
バック・コーラスで参加していたディオンヌ。
あるプロデューサーの所に、バカラックから電話があったらしい。
その内容は、
「この間のレコーディングで、
バック・コーラスに3人組の黒人の子が来ていただろう。
あの中で、目がギラギラしていて、
メチャメチャ細い子が居たじゃないか?
あの子を紹介してくれないかな?」
そうバカラックからの電話があった。
そのプロデューサーは「バカラックの奴は変な女の趣味があるんだなぁ」と思ったが、
紹介したそうだ。
それがディオンヌだったそうだ。

バカラックは、本能的に「彼女だ!」とひらめいたのか、
自分の曲を歌ってくれるのは彼女だと分かったそうだ。
(別にロマンスとかは無かったそうですが)
従来の黒人シンガーたちの持ち味である“ソウルフル”な表現力は
極力抑えられて、
それどころか、歌い出しのところなんか、
むしろ弱々しくもあることもある彼女だけど、
バカラックは、彼女の“声”そのものの魅力に惚れ込んで、
多数の名曲を歌わせる。
(ディオンヌ・ワーウィックのヴァーカルこそ
「地上でもっとも美しい」と表したのは、あのカーペンターズなどで
有名なソフト・ロックの名作曲家ロジャー・ニコルズだった)
"Walk On By"、“サン・ホセへの道”、
“I'll Never Fall In Love Again”、“小さな願い”そして、“Alfie”など、
バカラックの名曲には、彼女の“声”が重要なファクターとして、華を添えていた。
71年に、バカラック、デヴィッド、ディオンヌの3人は、
ワーナーに移籍するも、73年のミュージカル「Lost Horizon」が失敗した頃から、
バカラックとデヴィッドは、仲たがいして、パートナーシップを解消してしまう。
これにディオンヌは、契約違反だと2人を訴えて、
トラブルは裁判沙汰にまで発展し、
ディオンヌとの関係も途切れてしまう。
(彼女とは80年代に再度復活するが)
バカラックは作詞家とシンガーの両方を失い音楽活動は停滞し、
音楽家としての生命が失われつつあった。
しかし、80年代に入って、バカラックに再度転機が訪れる。
バカラックは、3番目の奥さんに、女性シンガーソングライターである、
キャロル・ベイヤー・セイガーと結婚する。
彼女は“あげまん”なのか、
若いライターを嫁さんにもらって、彼女とのコラボが多くなっていく。

81年、キャロル・ベイヤーセイガーの
“Stronger Than Before”がバカラックにとって、
久々のTOP40ヒットになると、
次に、ピーター・アレンと共作した資産家の優雅な
ラブ・コメディ映画「ミスター・アーサー」の主題歌である、
あの曲を手掛ける。
バカラックはキャロルと2人で、
ニューヨークのケネディ空港で飛行機に乗ろうとしていたそうだけど、
霧が出たか何かで、飛行機がなかなか飛ばなかったそうだ。
もう何十機も飛ぶ中、空港で待っていて、
窓の外にはキレイな月が見えたそうです。
2人は、3番目の結婚とはいえ、
とにかくラブラブ中で、その月を見ながら、キャロルが、
「こんなにどうすることもできなくて、月とニューヨークの街の間で
ハマっちゃったら、もう恋するしかないわね」
という、あの有名なサビの文句が生まれたというエピソードだ。

この曲を、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった新人クリストファー・クロスに歌わせ、
全米No.1となる大ヒットを記録。アカデミー賞も受賞した。
バカラックとベイヤー・セイガーとは
82年に結婚後、創作活動も充実気を迎え、
ロバータ・フラックやニール・ダイアモンドに曲を提供しヒットも生まれ、
バカラックは83年、絶縁状態であったディオンヌ・ワーウィックを呼んで、
テレビ主題歌にもなる“心の冒険者/Finder Of Lost Loves”を録音する。
このセッションで2人は12年ぶりに和解し、
翌年にはエイズ基金の為に、
“That's What Friends Are For”を
エルトン・ジョン、スティーヴィー・ワンダー、
グラディス・ナイトと供にレコーディング。
86年1月この曲は全米No.1を記録し、
グラミー賞で最優秀楽曲賞にも輝いた。
(この夏には"On My Own”が
パティー・ラベルとマイケル・マクドナルドのデュエットで全米No.1に輝いている。
このお洒落感覚は色褪せない。)
90年代に入ると、
60年代のバカラック/デヴィッドの作品が若手のアーティストに
よって、カバーされるなど再評価されるようになり、ますます音楽ファンや、
アーティスト達が、バカラックの業績を讃えるようになり、
世界中でバカラック・ブームとなる。
(私もこの頃から聴くようになりました)

その再び巻き起こったバカラック・ブームのきっかけともなった一因は、
98年の彼とエルヴィス・コステロとの共作アルバム
「PAINTED FROM MEMORY」だろう。
コステロは以前にも、
バカラックの“Baby It's You”のカバーを歌っていただけに、
コステロにとっては、ぜひ一緒にやりたいとの申し込みの
念願が叶い、喜びもひとしお。
当時コステロは、ジャズやクラシックなど、
異業種に挑戦し始めていた時期だけに、
このコラボ・アルバムは、その中の1つのプロジェクト。
素晴らしい作品だった。
このアルバムから、
“I Still Have That Other Girl”で、この年のグラミー賞で、
最優秀ポップ・コラボレーション部門で受賞している。
バカラックは、まさに“グラミー賞請負人”。
これぞバカラック・マジックだ。
近年ヴォーカリストとしての存在感を増してきたコステロにとっても、
大きなプラスだったし、バカラックにとっても、キャロルとのコンビ後は、
どうも甘いAOR路線で片づけられがちだっただけに、
この名コラボは互いに大きな功績を残したと思う。
演奏を職業とする人というのは歳をとらない。
いや、歳はとっているのだけど、演奏に関して狂いがない。
ある意味 “職人” なわけだから
当たり前といえば当たり前なのだけど、
中腰でピアノを弾きながらオーケストラの指揮をし、
時々歌も歌って、
シンセも操るバカラックは、80歳を超える大道芸人。
いや超人だ。
気分転換でお茶する時に、ケーキやお菓子のお供の代わりに、
バカラック・サウンドはいかがだろう。
甘くて糖質過多だが、ちょっぴりスパイスが効いてて、遊び心もある。
そんな“耳のスウィーツ”は、
いくら聴き過ぎても、太ることはありませんから。
ご安心を。
えっ、私ですか。
実は、甘いものはちょっと苦手でして・・。
酒の肴にバカラックも、なかなかいいもんですよ。

I Say A Little Prayer 小さな願い ‐ Aretha Franklin
Do You Know The Way To San Jose
サン・ホセへの道 ‐ Dionne Warwick
I Just Don't Know What To Do With Myself
心は乱れて - Dusty Springfield
Raindrops Keep Fallin' On My Head
雨にぬれても - B.J Thomas
What The World Needs Now
世界は愛を求めてる - Jackie DeShannon
The Look Of Love 恋の面影 - Sergio Mendes
What's New Pussycat
何かいいことないか仔猫チャン - Tom Jones
Baby It's You ベイビー・イッツ・ユー - The Shirelles
Magic Moments マジック・モーメンツ - Perry Como
Make It Easy On Yourself 涙でさようなら - Jerry Butler
Wishin' And Hopin' ウィッシン・アンド・ホッピン
- Dusty Springfield
You'll Never Get To Heaven (If You Break My Heart)
ユール・ネヴァー・ゲット・トゥ・ヘブン - The Stylistics
Arthur's Theme (Best That You Can Do)
ニューヨーク・シティ・セレナーデ - Christopher Cross
(There's)Always Something There To Remind Me
僕はこんなに(恋のウエイト・リフティング) - Naked Eyes
Walk On By ウォーク・オン・バイ - Isaac Hayes
Anyone Who Had A Heart 恋のハート - Luther Vandross
On My Own オン・マイ・オウン
- Patti Labelle / Michael McDonald
This House Is Empty Now デイス・ハウス・イズ・エンプティ・ナウ
- Elvis Costello / Burt Bacharach
4月も半ば。
ポカポカ。 すっかり春です。
ただ。
仕事の関係で生活リズムが変わってしまってしまい、
このブログとじっくり向き合う時間も取りにくくなってしまいまして・・。
でも、ゆっくりゆっくり。
筆は進めて参ろうかなと思っております。
こんな、思うように事が運ばない時、うまくいかない時、
気分転換によく聞いてる音楽を変えたくなりませんでしょうか。
最近は、じっくり音楽を聴きこめる時間も少なくなってきてるんですが、
私自身、
ずっと同じ音楽ばかり聴いてられない性分っていうのか、
けっして嫌いになるとか、
飽きがくるとかじゃないんだけど、
なんか気分を変えたくなるような・・。
そんな時に、この人の作品を聴くことがあります。
バート・バカラック。
ロック登場以降の半世紀、
アメリカのポピュラー音楽の世界において、唯一、
常にトップに立ち続けることのできた史上最高の個性派コンポーザー。
彼の偉大なる“作品”は、
世代やジャンルを越えて、今も愛され続けています。
今宵は、偉大なるバート・バカラックの魅力を語りたく思います。
また長くなりそうですが、
よろしくお付き合いを。

1928年にミズリー州カンザスに生まれ、
後にニューヨークに移り、ニューヨーク育ち。
今年で82歳。 しかも現役です。
(残念ながら、先の来日公演は延期されましたが)
これまで書いた曲は900曲以上。
全米チャートのトップ40にチャート・インしたのは、70曲余り。
アイドルものから、ロックやR&B、はたまた映画音楽にミュージカルなど、
何でも書きこなす器用な作曲家であり、
アレンジもこなすコンポーザーです。
ただバカラックは、その器用さが故に、
ロックの世界では、評価は最悪。
こ洒落たアレンジと甘いメロディが、
“奴ら”には、どうも鼻に付くんでしょうか、
あまりにも商業的(売れ線狙い)であるといった、
レッテルも彼に付いてしまってます。
しかし、どの作品にも彼の個性が見事に刻み込まれて、
その曲はジャンルの壁を超えて、世代の壁を越えて、
幅広いアーティスト達によって、今もなお歌われています。
彼の作品には、どんなアレンジを施されても“負けない力”。
主張できる曲の力。
いわゆる、「作品力」が備わっているんです。
彼に影響を与えたのは、
デイジー・ガレスピーやチャーリー・パーカーなど、
バップ全盛期の革新的なジャズが大きいみたいだが、
それだけじゃなく、もう一人、彼を音楽の世界に導いたのは、
あの有名なバレエ音楽「ボレロ」の作曲者であり、
「展覧会の絵」を編曲した天才ラヴェルでした。
近代クラシック音楽の世界において、
常に革新的なサウンドを追求し続けたフランスの天才作曲家だ。
かたやジャズの革新性、かたやクラシックの革新者に憧れることで、
彼は音楽の世界に飛び込んだわけです。
故に彼がポピュラー音楽の革新者に成り得るのもわかります。
また、彼の築き上げる バカラック・サウンドの独自性は、
よくフィル・スペクターの築き上げた
ウォール・オブ・サウンド(音の壁)と引き合いに出されるけど、
スペクターのような楽器や音声の積み上げによる分厚い音づくりとは、
全く異なり、意表をついた間(リズム)と意表をついた
楽器の使い方がその最大の特徴で、
特にフリューゲル・ホーンの使い方やセンスの良さは、
その象徴と言っていいし、
中南米のサウンド(ボサノヴァやマリアッチなど)を
いち早くポップスに取り入れた
ワールド・ミュージック指向の元祖とも言える存在でもある。
ポップスの世界で、誰もやってないことに取り組んでいたのも、
バカラックだった。
バカラックの曲は、実に親しみやすく、
聴く者を和ませる不思議な魅力を持ってる。
いわゆる、バカラック・マジックと呼ばれてるものだ。
しかし、彼がこの世界でトップでいられたのは、
けっして彼が大衆的で親しみやすいポップスばかり追求していたからではなく、
逆に彼はポピュラー音楽の世界において、
常に“異端派”だった。
あのように当時としては、常に革新的な手法を用いることで、
異端派と呼ばれる存在であることこそ、
彼が未だにトップ・クリエーターであり続ける
理由なんじゃないかと思う。
ただ、彼のヒット曲に対して音楽業界の評価は今ひとつでした。
そこで、彼は作曲家として、一人前の評価を得るため、
ミュージカルの作曲にも挑戦する。
68年に、ブロードウェイの人気作家ニール・サイモン脚本の
「プロミス・プロミス」で、彼はこの作品でグラミー賞を受賞。
劇中歌の"I'll Never Fall In Love Again"が、
ディオンヌ・ワーウィックらの歌によって世界的な大ヒットになって、
いよいよ一流作曲家の仲間入りを果たすことになるし、
彼はこの頃同時に、映画音楽の世界でも活躍し始め、
「何かいいことないか子猫チャン」(’65)、
「007/カジノ・ロワイヤル」(’67)、「失われた地平線」(’73)など手掛ける。
そしてなんと言っても、
才能開花の礎、B.J トーマス が歌った、
“Raindrops Keep Fallin' On My Head”だ。
69年にポール・ニューマンらが主演した「明日に向かって撃て」の劇中で
使用されて、アカデミー作曲賞、歌曲賞を受賞、
アメリカではNo.1になり、世界的にも大ヒットした。

69年というのは、サイケ全盛の時代。
ヒッピーが出現し、若者達の音楽が生まれる。
ベトナム戦争の真っ只中、その時代の半分以上の若者達、
そして大人達にとっては、重苦しい時代。
そんな中に、この“雨にぬれても”が出てきた。
ラジオで流れるこの小洒落たメロディが、
泥沼の中のようなロック世界の中に救世主のように癒した。
髪が長くて、どこか、ブッ飛んでるような連中ばかりに
やられてばかりだったポップス・ファンや大人達が生みだした
“真のヒット曲”だったんではないかと思う。
今回、数あるバカラック作品集の中でも、
この英国編集の作品集は、やや異彩を放つ。
(一番いい作品集は、
「THE LOOK OF LOVE」のアメリカ仕様の50曲入りの3CD。
選曲もベストだし、初心者でも耳馴染みのある曲が多いんではないかな)
どれも大体、ハル・デヴィットとコンビを組んでた
60年代の黄金期の曲がメインに組み込まれてるのが多いんだけど、
これは、コンビ解消後の80年代以降のヒット曲や
アーチストがカバーした曲の割合が多く収録されてるのが特徴。
ある意味、マニアックな内容。
シレルズの“Baby It's You”を、ビートルズがカバーしてるけど、
元を正せば、バカラックだし、
ダスティ・スプリングフィールドで有名な“恋の面影”も、
ここでは、セルジオ・メンデスのサルサ・バージョンの方で変化球を。
あの“Walk On By”も、ディオンヌ・ワーウィックが歌う“定番”じゃなくて、
故アイザック・ヘイズのR&Bバージョンで入れて、チェンジアップさせる。
(どうせなら、魔球並みのストラングラースのパンク・バージョンなら最高)
サンディ・ショウで有名なキャッチーな“恋のウェイト・リフティング”も、
(この邦題は、発売したのが東京五輪の時とバッテングしたのもあって、
日本の重量上げにメダルの期待と宣伝を込めて、
付けられたと言うけれど・・)
ここでは、83年にネイキッド・アイズが、邦題は“僕はこんなに”で、
スマッシュ・ヒットさせたテクノ・バージョンで80'sマニアを喜ばせる。
ただここには、
バカラック作品集に入ってなければならない曲が入ってない。
(レーベルや権利の関係もあるだろうけど)
カーペンターズの“(They Long To Be)Close To You 遥かなる影”だ。

この曲は、作詞をしたハル・デヴィッドが、
A&Mの副社長のジャズ・トランペッターのハープ・アルバートに提供したが、
ハープは曲を渡された時、「この詩は女々しい」と言って、
レコーディングを拒んでいたそうだ。
そこで、所属しているカーペンターズにピッタリじゃないかとの提案で、
兄のリチャードに譲渡することにした。
しかし、最初、兄のリチャードは、
「こんな曲をやるのかぁ・・」と言っていたそうで。
「これは小学生が歌うような曲じゃないか」と、
彼も全然乗り気じゃなかったそうだ。
結果的には、カーペンターズがクールに仕上げて、
彼らの代表曲までになるんだけど、
甘くて、くすぐったくなるようなメロディだけど、
カレンの心に響くやさしい歌声は、世代を超えて響く。
バカラックを語る上で、重要な人物が2人いる。

まずは、黄金期のパートナーとなる作詞家のハル・デヴィッド。
売れなかった下積み時代に、クラブの伴奏をしながら
細々と活動していた56年ごろに知り合ってから、
73年くらいまでコンビを組んで、数々の名曲を誕生させた。
あのドイツの歌姫マレーネ・デイトーリッヒに見出されて、
バンドの指揮者という定職を得たバカラックは、生活が安定しただけでなく、
その知名度が広がったことで、再び作曲家としての活動が可能になり、
ハル・デヴィッドともコンビも出来上がったことから、
いよいよその活動が本格化します。
そして、もう一人が、
黒人天才女性シンガーであるディオンヌ・ワーウィックだ。
まさに申し子。
黄金期のバカラック・サウンドの中心は彼女だった。
(ちなみに、あのホイットニー・ヒューストンのおばさんのあたる人ですね)
彼女は、音楽学校を卒業していた為、
譜面を所見で読める才能を買われて、
バカラックとハル・デイヴィッドのコンビの曲を、彼女が歌って、
彼等の売り込み用のサンプルに、
彼女のボーカルを使ったことからサクセス・ストーリーが始まる。
ドリフターズのレコーディングに、
バック・コーラスで参加していたディオンヌ。
あるプロデューサーの所に、バカラックから電話があったらしい。
その内容は、
「この間のレコーディングで、
バック・コーラスに3人組の黒人の子が来ていただろう。
あの中で、目がギラギラしていて、
メチャメチャ細い子が居たじゃないか?
あの子を紹介してくれないかな?」
そうバカラックからの電話があった。
そのプロデューサーは「バカラックの奴は変な女の趣味があるんだなぁ」と思ったが、
紹介したそうだ。
それがディオンヌだったそうだ。

バカラックは、本能的に「彼女だ!」とひらめいたのか、
自分の曲を歌ってくれるのは彼女だと分かったそうだ。
(別にロマンスとかは無かったそうですが)
従来の黒人シンガーたちの持ち味である“ソウルフル”な表現力は
極力抑えられて、
それどころか、歌い出しのところなんか、
むしろ弱々しくもあることもある彼女だけど、
バカラックは、彼女の“声”そのものの魅力に惚れ込んで、
多数の名曲を歌わせる。
(ディオンヌ・ワーウィックのヴァーカルこそ
「地上でもっとも美しい」と表したのは、あのカーペンターズなどで
有名なソフト・ロックの名作曲家ロジャー・ニコルズだった)
"Walk On By"、“サン・ホセへの道”、
“I'll Never Fall In Love Again”、“小さな願い”そして、“Alfie”など、
バカラックの名曲には、彼女の“声”が重要なファクターとして、華を添えていた。
71年に、バカラック、デヴィッド、ディオンヌの3人は、
ワーナーに移籍するも、73年のミュージカル「Lost Horizon」が失敗した頃から、
バカラックとデヴィッドは、仲たがいして、パートナーシップを解消してしまう。
これにディオンヌは、契約違反だと2人を訴えて、
トラブルは裁判沙汰にまで発展し、
ディオンヌとの関係も途切れてしまう。
(彼女とは80年代に再度復活するが)
バカラックは作詞家とシンガーの両方を失い音楽活動は停滞し、
音楽家としての生命が失われつつあった。
しかし、80年代に入って、バカラックに再度転機が訪れる。
バカラックは、3番目の奥さんに、女性シンガーソングライターである、
キャロル・ベイヤー・セイガーと結婚する。
彼女は“あげまん”なのか、
若いライターを嫁さんにもらって、彼女とのコラボが多くなっていく。

81年、キャロル・ベイヤーセイガーの
“Stronger Than Before”がバカラックにとって、
久々のTOP40ヒットになると、
次に、ピーター・アレンと共作した資産家の優雅な
ラブ・コメディ映画「ミスター・アーサー」の主題歌である、
あの曲を手掛ける。
バカラックはキャロルと2人で、
ニューヨークのケネディ空港で飛行機に乗ろうとしていたそうだけど、
霧が出たか何かで、飛行機がなかなか飛ばなかったそうだ。
もう何十機も飛ぶ中、空港で待っていて、
窓の外にはキレイな月が見えたそうです。
2人は、3番目の結婚とはいえ、
とにかくラブラブ中で、その月を見ながら、キャロルが、
「こんなにどうすることもできなくて、月とニューヨークの街の間で
ハマっちゃったら、もう恋するしかないわね」
という、あの有名なサビの文句が生まれたというエピソードだ。

この曲を、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった新人クリストファー・クロスに歌わせ、
全米No.1となる大ヒットを記録。アカデミー賞も受賞した。
バカラックとベイヤー・セイガーとは
82年に結婚後、創作活動も充実気を迎え、
ロバータ・フラックやニール・ダイアモンドに曲を提供しヒットも生まれ、
バカラックは83年、絶縁状態であったディオンヌ・ワーウィックを呼んで、
テレビ主題歌にもなる“心の冒険者/Finder Of Lost Loves”を録音する。
このセッションで2人は12年ぶりに和解し、
翌年にはエイズ基金の為に、
“That's What Friends Are For”を
エルトン・ジョン、スティーヴィー・ワンダー、
グラディス・ナイトと供にレコーディング。
86年1月この曲は全米No.1を記録し、
グラミー賞で最優秀楽曲賞にも輝いた。
(この夏には"On My Own”が
パティー・ラベルとマイケル・マクドナルドのデュエットで全米No.1に輝いている。
このお洒落感覚は色褪せない。)
90年代に入ると、
60年代のバカラック/デヴィッドの作品が若手のアーティストに
よって、カバーされるなど再評価されるようになり、ますます音楽ファンや、
アーティスト達が、バカラックの業績を讃えるようになり、
世界中でバカラック・ブームとなる。
(私もこの頃から聴くようになりました)

その再び巻き起こったバカラック・ブームのきっかけともなった一因は、
98年の彼とエルヴィス・コステロとの共作アルバム
「PAINTED FROM MEMORY」だろう。
コステロは以前にも、
バカラックの“Baby It's You”のカバーを歌っていただけに、
コステロにとっては、ぜひ一緒にやりたいとの申し込みの
念願が叶い、喜びもひとしお。
当時コステロは、ジャズやクラシックなど、
異業種に挑戦し始めていた時期だけに、
このコラボ・アルバムは、その中の1つのプロジェクト。
素晴らしい作品だった。
このアルバムから、
“I Still Have That Other Girl”で、この年のグラミー賞で、
最優秀ポップ・コラボレーション部門で受賞している。
バカラックは、まさに“グラミー賞請負人”。
これぞバカラック・マジックだ。
近年ヴォーカリストとしての存在感を増してきたコステロにとっても、
大きなプラスだったし、バカラックにとっても、キャロルとのコンビ後は、
どうも甘いAOR路線で片づけられがちだっただけに、
この名コラボは互いに大きな功績を残したと思う。
演奏を職業とする人というのは歳をとらない。
いや、歳はとっているのだけど、演奏に関して狂いがない。
ある意味 “職人” なわけだから
当たり前といえば当たり前なのだけど、
中腰でピアノを弾きながらオーケストラの指揮をし、
時々歌も歌って、
シンセも操るバカラックは、80歳を超える大道芸人。
いや超人だ。
気分転換でお茶する時に、ケーキやお菓子のお供の代わりに、
バカラック・サウンドはいかがだろう。
甘くて糖質過多だが、ちょっぴりスパイスが効いてて、遊び心もある。
そんな“耳のスウィーツ”は、
いくら聴き過ぎても、太ることはありませんから。
ご安心を。
えっ、私ですか。
実は、甘いものはちょっと苦手でして・・。
酒の肴にバカラックも、なかなかいいもんですよ。
“音の壁”の中から聖なる贈り物。
A CHRISTMAS GIFT FOR YOU from PHIL SPECTOR

White Christmas Darlene Love
Frosty The Snowman The Ronettes
The Bells Of St.Mary Bob B. Soxx And The Blue Jeans
Santa Claus Is Coming To Town The Crystals
Sleigh Ride The Ronettes
Marshmallow World Darlene Love
I Saw Mommy Kissing Santa Claus The Ronettes
Rudolph The Red‐Nosed Reindeer The Crystals
Winter Wonderland Darlene Love
Palade Of The Wooden Soldiers The Crystals
Christmas (Baby Please Come Home) Darlene Love
Here Comes Santa Claus Bob B. Soxx And The Blue Jeans
Silent Night Phil Spector And Artists
早いもんですね。 今年もそろそろクリスマスが近づいてきました。
この時期、皆さんはどんなクリスマス・アルバムを聴かれます?
私は、ずっと決まってます。 もう十年来ずっと同じ。
ビーチ・ボーイズの「CHRISTMAS ALBUM」。
フィル・スペクターの「A CHRISTMAS GIFT FOR YOU」。
大滝詠一の「ナイアガラ・カレンダー」。 この3枚に、
達郎さんの「クリスマス・イブ」を足せば事足りる。 毎年コレばっか。
ナイアガラ系のアーチストに興味を持ち始めてから、ずっと変わってないんだけど、
どれも定番中の定番で、ベタ中のベタ。 しかし、いいものは永遠にいいんです。
(「ナイアガラ・カレンダー」はクリスマス・アルバムじゃないけど、
年末の締めくくりというか、1年を振り返るって意味なんだけど・・。)
ビーチ・ボーイズのと、大滝師匠の作品は、かなり前にレビューしてますので、
(「夏の五重奏をもみの木に飾って。」 「趣味趣味音楽でポップス歌暦。」)
後の一枚は、このフィル・スペクターの大傑作クリスマス・アルバムの紹介です。
前回からの流れもあるんだけど、 またまた“音の壁”の話によろしくお付き合いを。
ポップス界の天才プロデューサーにして、“最高の奇人”フィル・スペクター、この男。

ユダヤ系ロシア人の移民の子としてNYに生まれる。長い鼻に大きな耳。
自分の容姿に強いコンプレックスを持ち、神経質で気まぐれだった彼は、
一方で豊かな音楽の才能に恵まれ、多数の楽器の音を少しずつブレンドさせ、
かつエコーの深い独特のサウンドを創り上げる。
いわゆる「ウォール・オブ・サウンド」という手法をで生み出した。
セルフ・プロデュース作品を全米1位に送り込んだのがなんと18歳の時。
数年間のソング・ライター期を経て、60年代に入ると、プロデューサーとして大爆発。
61年にフィレス・レコードを設立。 63年に、60年代ポップスの代表曲ともいえる、
ザ・ロネッツの「Be My Baby」を作り出した。 コレが、彼の最高傑作だろう。
そのサウンド・メイクは革命的かつ偏執的。 ここまで、音にこだわる奴はいない。
編曲、オーケストレイション、イコライジング、バランス、ミキシング、エコー処理、
果てはジャケット・デザインに至るまで、全てを徹底的にコントロール、支配する。
(この異常なこだわりは、「スタジオに置いてある灰皿のデザインまでも指示した」
なんてエピソードもあるくらい。) その偏執ぶりは、ステレオ録音が主流に
なっても、モノラルにこだわり続けた。
しかしある意味、今日のロック・サウンドとロック・ビジネスの基礎をたった一人で
創り上げた偉大な人間であるともいえる。
彼はスターを手掛けるというより、自らのアイデアを実現するべく、自分が主導権を
握るガールズ・グループに曲を与える、というスタイル中心に活動をしていた。
(80年代後半の英国のユーロビートの先駆者、ストック・エイトキン・ウォーターマン
や、日本でいったら、全盛期の小室ファミリーや、
つんく♂の「ハロー・プロジェクトなんか、
このスペクターのスタイルに影響されたものだろう。)

コレは「クリスタルズ、ロネッツなど人気グループが集まったクリスマス・アルバム」
じゃなくて、「フィル・スペクター・ファミリーのウォール・オブ・サウンドに
包まれたクリスマス・アルバム」という捉え方が正確。 この圧倒的音圧。 凄い。
このシャープでクリアな音が主流な時代に、正直、時代遅れのこもりがちな音が、
ちょっと気になるかもしれないけど、これこそ、ポップスの王道。 本物はコレ。
それは、まるで天国のようなアルバム。 一分の隙間のない“音の壁”の
ただでもゴージャズなスペクター・サウンドによる、夢のクリスマス・ソング集。
メンバーの殆どがR&Bテイストの黒人シンガーで、ヴォーカルのパンチも最高。
オープニングのダーレン・ラヴの“White Christmas”の歌い出しから
ノックアウト間違いなし。 どの曲も定番のクリスマス・ソングばかり。
楽しくないわきゃない。 そうじゃないモノ、彼が許すわけがないのだ。
ボビー・ソックスの、“The Bells Of St.Mary”で泣かせといて、
クリスタルズの“サンタが街にやって来た”がこれまた、いいんですよ。
セリフ、怒濤のオープニング、(ハル・ブレインの素晴らしいドラミング!)
そして、サビのシャウト。 スペクターのアレンジ力に天才さが溢れ出している。
でも究極は、ロネッツの“サンタがママにキスをした”。 これまたブラボー。
ソウルフルなヴォーカルに流麗なストリングス。この曲の間奏のストリングスを
聴くと、「これぞポップスのあるべき姿」と考えてしまう。

そして最後を飾るのが、“Silent Night”に乗せて、 自慢げに、
「Hello , This is Phil Spector・・」で始まる本人のご挨拶。 ご丁寧に・・。
ここらへんが「奇人」とか、「変人」とか言われるんですよ、全く。
インナー写真で自らサンタの格好してるし、しかもヒゲには提唱し続けた
「モノラルへ帰ろう~Back to MONO」のバッヂつけて、はいポーズ。
こいつ、ほんとは出たがりなんだろうなぁ。
(このアルバムに、追加でジョン&ヨーコの“Happy X'Mas”をプラス編集したら、
あなたのスペクターのプロデュースのクリスマス・ソングは、ほぼ完璧です。)
最後に、そんな彼が後にビートルズの「LET IT BE」を手掛けることになるけど、
ついでに、少し触れておきますと。 (話がダブるとこもありますが)
実際のところ、彼は67年頃から事実上、音楽業界から引退状態にあったんだけど、
69年に一時的にカムバックして、英国ではまだ人気が継続していたということや、
当時のビートルズの経理担当だった(敏腕かつ悪徳だったが)アラン・クラインが、
スペクターと繋がりがあったこともあり、ジョンも以前から、“音の壁”に興味を
持っていたのをきっかけに、70年1月、ジョンの3rdシングル“Instant Karma!”の
プロデュースを依頼(ジョージの強い推薦もあった)。 その仕事振りに感服した
ジョンは、放置しっ放しだった「GET BACK」の再リミックスを任せたのだった。
(もちろん、ポールの相談なしで。 そのころ彼は、アビーロードの別スタジオで
「McCARTNEY」のトラック補正をしていたのだ。 誰にも気づかれずに・・。)
その作業は3月23日~4月2日の間に行われ、遂に「LET IT BE」が完成するが、
その現場には、ジョージと何故かアレン・クラインしか立ち会ってなかったそうだ。
つまり現場の責任者としては、ジョージ・マーティンもグリン・ジョンズも蚊帳の外。
その辺が、後々まで確執を生み出す要因にもなっていくんだけど・・。
彼の奇人ぶりはすでに伝説の域に達していた。 彼は少しでも気にさわることが
あると、持ち歩いているピストルを振り回した。 ジョンの「ROCK'N ROLL」の
レコーディングでは、ジョンと意見が合わずイラついたのか、おろうことに
ジョンに銃口を向け威嚇して、スタジオの天井をピストルで撃ち抜き、気に入らない
出来のマスター・テープを持ったまま姿をくらましたという有名なエピソードもある。
(ただこの時のジョンもドラッグと酒浸りで手に負えない状態だったが・・。)
30代にして音楽業界からスッパリと足を洗い、ビバリー・ヒルズの豪邸で隠遁生活を
始めたというスペクター。 この男の末路など書く気にもならないけど、
なんという哀れな男だろう。 そして、音楽史に偉大なる功績を残しているだけに、
心底残念に思う。 天国のジョンとジョージはどう思ってるんだか・・。
これから塀の中で過していくクリスマスに、彼は何を思うんでしょう・・。

White Christmas Darlene Love
Frosty The Snowman The Ronettes
The Bells Of St.Mary Bob B. Soxx And The Blue Jeans
Santa Claus Is Coming To Town The Crystals
Sleigh Ride The Ronettes
Marshmallow World Darlene Love
I Saw Mommy Kissing Santa Claus The Ronettes
Rudolph The Red‐Nosed Reindeer The Crystals
Winter Wonderland Darlene Love
Palade Of The Wooden Soldiers The Crystals
Christmas (Baby Please Come Home) Darlene Love
Here Comes Santa Claus Bob B. Soxx And The Blue Jeans
Silent Night Phil Spector And Artists
早いもんですね。 今年もそろそろクリスマスが近づいてきました。
この時期、皆さんはどんなクリスマス・アルバムを聴かれます?
私は、ずっと決まってます。 もう十年来ずっと同じ。
ビーチ・ボーイズの「CHRISTMAS ALBUM」。
フィル・スペクターの「A CHRISTMAS GIFT FOR YOU」。
大滝詠一の「ナイアガラ・カレンダー」。 この3枚に、
達郎さんの「クリスマス・イブ」を足せば事足りる。 毎年コレばっか。
ナイアガラ系のアーチストに興味を持ち始めてから、ずっと変わってないんだけど、
どれも定番中の定番で、ベタ中のベタ。 しかし、いいものは永遠にいいんです。
(「ナイアガラ・カレンダー」はクリスマス・アルバムじゃないけど、
年末の締めくくりというか、1年を振り返るって意味なんだけど・・。)
ビーチ・ボーイズのと、大滝師匠の作品は、かなり前にレビューしてますので、
(「夏の五重奏をもみの木に飾って。」 「趣味趣味音楽でポップス歌暦。」)
後の一枚は、このフィル・スペクターの大傑作クリスマス・アルバムの紹介です。
前回からの流れもあるんだけど、 またまた“音の壁”の話によろしくお付き合いを。
ポップス界の天才プロデューサーにして、“最高の奇人”フィル・スペクター、この男。

ユダヤ系ロシア人の移民の子としてNYに生まれる。長い鼻に大きな耳。
自分の容姿に強いコンプレックスを持ち、神経質で気まぐれだった彼は、
一方で豊かな音楽の才能に恵まれ、多数の楽器の音を少しずつブレンドさせ、
かつエコーの深い独特のサウンドを創り上げる。
いわゆる「ウォール・オブ・サウンド」という手法をで生み出した。
セルフ・プロデュース作品を全米1位に送り込んだのがなんと18歳の時。
数年間のソング・ライター期を経て、60年代に入ると、プロデューサーとして大爆発。
61年にフィレス・レコードを設立。 63年に、60年代ポップスの代表曲ともいえる、
ザ・ロネッツの「Be My Baby」を作り出した。 コレが、彼の最高傑作だろう。
そのサウンド・メイクは革命的かつ偏執的。 ここまで、音にこだわる奴はいない。
編曲、オーケストレイション、イコライジング、バランス、ミキシング、エコー処理、
果てはジャケット・デザインに至るまで、全てを徹底的にコントロール、支配する。
(この異常なこだわりは、「スタジオに置いてある灰皿のデザインまでも指示した」
なんてエピソードもあるくらい。) その偏執ぶりは、ステレオ録音が主流に
なっても、モノラルにこだわり続けた。
しかしある意味、今日のロック・サウンドとロック・ビジネスの基礎をたった一人で
創り上げた偉大な人間であるともいえる。
彼はスターを手掛けるというより、自らのアイデアを実現するべく、自分が主導権を
握るガールズ・グループに曲を与える、というスタイル中心に活動をしていた。
(80年代後半の英国のユーロビートの先駆者、ストック・エイトキン・ウォーターマン
や、日本でいったら、全盛期の小室ファミリーや、
つんく♂の「ハロー・プロジェクトなんか、
このスペクターのスタイルに影響されたものだろう。)

コレは「クリスタルズ、ロネッツなど人気グループが集まったクリスマス・アルバム」
じゃなくて、「フィル・スペクター・ファミリーのウォール・オブ・サウンドに
包まれたクリスマス・アルバム」という捉え方が正確。 この圧倒的音圧。 凄い。
このシャープでクリアな音が主流な時代に、正直、時代遅れのこもりがちな音が、
ちょっと気になるかもしれないけど、これこそ、ポップスの王道。 本物はコレ。
それは、まるで天国のようなアルバム。 一分の隙間のない“音の壁”の
ただでもゴージャズなスペクター・サウンドによる、夢のクリスマス・ソング集。
メンバーの殆どがR&Bテイストの黒人シンガーで、ヴォーカルのパンチも最高。
オープニングのダーレン・ラヴの“White Christmas”の歌い出しから
ノックアウト間違いなし。 どの曲も定番のクリスマス・ソングばかり。
楽しくないわきゃない。 そうじゃないモノ、彼が許すわけがないのだ。
ボビー・ソックスの、“The Bells Of St.Mary”で泣かせといて、
クリスタルズの“サンタが街にやって来た”がこれまた、いいんですよ。
セリフ、怒濤のオープニング、(ハル・ブレインの素晴らしいドラミング!)
そして、サビのシャウト。 スペクターのアレンジ力に天才さが溢れ出している。
でも究極は、ロネッツの“サンタがママにキスをした”。 これまたブラボー。
ソウルフルなヴォーカルに流麗なストリングス。この曲の間奏のストリングスを
聴くと、「これぞポップスのあるべき姿」と考えてしまう。

そして最後を飾るのが、“Silent Night”に乗せて、 自慢げに、
「Hello , This is Phil Spector・・」で始まる本人のご挨拶。 ご丁寧に・・。
ここらへんが「奇人」とか、「変人」とか言われるんですよ、全く。
インナー写真で自らサンタの格好してるし、しかもヒゲには提唱し続けた
「モノラルへ帰ろう~Back to MONO」のバッヂつけて、はいポーズ。
こいつ、ほんとは出たがりなんだろうなぁ。
(このアルバムに、追加でジョン&ヨーコの“Happy X'Mas”をプラス編集したら、
あなたのスペクターのプロデュースのクリスマス・ソングは、ほぼ完璧です。)
最後に、そんな彼が後にビートルズの「LET IT BE」を手掛けることになるけど、
ついでに、少し触れておきますと。 (話がダブるとこもありますが)
実際のところ、彼は67年頃から事実上、音楽業界から引退状態にあったんだけど、
69年に一時的にカムバックして、英国ではまだ人気が継続していたということや、
当時のビートルズの経理担当だった(敏腕かつ悪徳だったが)アラン・クラインが、
スペクターと繋がりがあったこともあり、ジョンも以前から、“音の壁”に興味を
持っていたのをきっかけに、70年1月、ジョンの3rdシングル“Instant Karma!”の
プロデュースを依頼(ジョージの強い推薦もあった)。 その仕事振りに感服した
ジョンは、放置しっ放しだった「GET BACK」の再リミックスを任せたのだった。
(もちろん、ポールの相談なしで。 そのころ彼は、アビーロードの別スタジオで
「McCARTNEY」のトラック補正をしていたのだ。 誰にも気づかれずに・・。)
その作業は3月23日~4月2日の間に行われ、遂に「LET IT BE」が完成するが、
その現場には、ジョージと何故かアレン・クラインしか立ち会ってなかったそうだ。
つまり現場の責任者としては、ジョージ・マーティンもグリン・ジョンズも蚊帳の外。
その辺が、後々まで確執を生み出す要因にもなっていくんだけど・・。
彼の奇人ぶりはすでに伝説の域に達していた。 彼は少しでも気にさわることが
あると、持ち歩いているピストルを振り回した。 ジョンの「ROCK'N ROLL」の
レコーディングでは、ジョンと意見が合わずイラついたのか、おろうことに
ジョンに銃口を向け威嚇して、スタジオの天井をピストルで撃ち抜き、気に入らない
出来のマスター・テープを持ったまま姿をくらましたという有名なエピソードもある。
(ただこの時のジョンもドラッグと酒浸りで手に負えない状態だったが・・。)
30代にして音楽業界からスッパリと足を洗い、ビバリー・ヒルズの豪邸で隠遁生活を
始めたというスペクター。 この男の末路など書く気にもならないけど、
なんという哀れな男だろう。 そして、音楽史に偉大なる功績を残しているだけに、
心底残念に思う。 天国のジョンとジョージはどう思ってるんだか・・。
これから塀の中で過していくクリスマスに、彼は何を思うんでしょう・・。
| h o m e |