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拝啓マクラーレン殿。勝手に逝きやがれ!! 

      NEVER MIND THE BOLLOCKS 
                HERE'S THE SEX PISTOLS


           

            Holidays In The Sun
            Bodies
            No Feelings
            Liar
            God Save The Queen
            Problems
            Seventeen
            Anarchy In The UK
            Sub‐Mision
            Pretty Vacant
            New York
            EMI

 もう完全に話題が遅れてしまったんだけど、去る4月8日に
 パンク・ムーヴメントの仕掛け人であり、あの“ピストルズを操った男”である
 マルコム・マクラーレンが、中皮細胞のがんのため、スイスの病院で亡くなった。

 正直なとこ、彼に対しては、これといった思い入れはありません。 全く。
 なんで、あえて追悼記事も書かずに、スルーしちゃおうかな・・と思ったんだけど、

 このブログを始めて、そろそろ5年になりますが(丸2年は断筆してましたが)
 考えてみたら、“パンク・ロック”って全然書いてないんですよ。 
 「たか兄さん、パンクはお嫌い?」  とんでもない! 大好物ですよ!
 しかしねぇ・・。  ダメな私ですよ。
 書こう、書かなきゃ、書きたいな、・・・ そんな思いを巡らせてはスルーの連続。
 でも、もう書きます。 マルコムの死が背中を押したんじゃありませんからね。
 (強調すればするほど・・ねぇ。 ・・ダメだなぁ)

 今宵は、マルコム・マクラーレンと、彼に操られたロンドン・パンクの伝説である、
 セックス・ピストルズについて語りたく思います。 よろしくお付き合いを。

  

 マルコム・マクラーレン。 パンク・カルチャーの仕掛け人、いや、またの名を
 “ロックン・ロールのペテン師 (Rock'n Roll Swindle)”とも言われる。
 元々この人、デザイナーとしてブティックを経営してたけど、74年に渡米した際、
 パンクの発祥地ニューヨークで、そのアンダーグラウンド・シーンにおける、
 思想やアート、音楽(ロック)、そして、ファッションである“パンク(クズ)”
 の源流に多大な衝撃を受ける。 そして、そのシーンのアイドル的バンドだった
 ニューヨーク・ドールズを気に入り、自らマネージャーを買って出る。
 デビュー作は、まずまずだったけど、2枚目はダメ。 散々の結果だった。

 でも、その反骨精神と、熱いパンクへの思いは消えず、CBDBというライブ・クラブで、
 (有名パンク・ミュージシャン、バンドが生まれ、巣立った伝説のクラブだ)
 あの髪を短く刈って逆立て、Tシャツはビリビリに破ってレザー服に鋲といった、
 パンク・ファッションの創始者である、テレヴィジョンを脱退したリチャード・ヘル
 と出会う。 彼に惚れ込んでしまい、彼を売り込もうと、なんとロンドンに
 持って帰ろうと画策するも、あっさり断れ、彼はロンドンに帰ってくる。

 そして、ニューヨークで受けた“刺激”をロンドンにも拡げようと企んでいく。

 73年7月3日、デヴィッド・ボウイの「ジギー引退公演」で、その舞台裏に侵入し、
 楽器や機材を盗んで、バンドを始めたバカな奴らがいた。
 そのバンド名「THE STRAND」。 ロキシー・ミュージックの曲から拝借した名前。
 そこに、スティーヴ・ジョーンズ(g)とポール・クック(ds)がいた。

 奴らは、やがて「LET IT ROCK」というブティックに出入りするようになる。
 その経営者は、あのマルコム・マクラーレンだ。
 そこに、土曜だけバイトに来てたのが、グレン・マトロック(b)。
 マルコムは、店でたむろしてた、こいつらに「バンドをやってみろ」と仕向ける。
 問題はヴォーカリストだ。 これが、なかなか決まらない。
 決まったのは、75年。 オーディションに来てたのは、同じく店の常連で
 「俺はピンク・フロイドが大嫌いだ」とプリントしたTシャツを着てふらついてた
 男で、今まで“まとも”に歌なんか歌ったことがなかったが、“ひとわめき”で、
 ジョン・"ロットン”・ライドン(Vo)に決めてしまう。
 
 そして、自らのブティックの名前も「SEX」に変え、
 バンド名も、セックス・ピストルズに。 

    

 活動2年半。 シングル4枚。 そして、アルバムたった1枚。 それだけ。
 攻撃と破壊。 刹那主義。 快楽主義。 権威否定。
 奴らは長いロックの歴史に永遠に消えない、深い“傷痕”を残したのだ。 

 マルコムは、自分の商売道具としてピストルズというバンドを作り、
 自らのイメージを具体化させるために、奴らを調教する。
 「客に唾を吐け!」「もっと過激に振る舞え!」「人に嫌われろ!」と、
 “政治色の濃い、不良のベイシティ・ローラーズ”っぽくしたかったらしく、
 ザ・フー、ニューヨーク・ドールズやアリス・クーパー、イギー・ポップなど、
 歴代の悪者、反社会ロッカー達の楽曲を習わせ、メンバー達を仕込んでいった。

 すべてが型破りで刺激的。容姿や音は当然、発言も行動も危なすぎて問題だらけ。
 76年11月に、EMIから“Anarchy In The UK”でデビューするも、社会的非難から
 契約破棄されてしまう。 翌年A&Mとバッキンガム宮殿前で契約するも、数日後、
 契約破棄に。 いずれもレコード会社が違約金を払ってまで“追っ払う”始末。
 やっと3度目に、当時は新興レーベルだったヴァージンが興味を示し、契約できて、
 そのたった一枚のアルバムが、この「勝手にしやがれ!!」だ。

 しかし、当時のヴァージン・レコード社長はこう述べてる。
 「奴ら(ピストルズ)は、アルバム1枚しか作らないだろうと思ってた」
 もともと長続きするとは、最初から思ってなかったわけである。
 新興レーベルだったヴァージンを宣伝するには、格好の存在だったし、
 メジャーと比べて、自由でやりやすいレーベルだった両者の思惑が一致していた。

 しかし意外かもしれないが、いわゆるパンク・ブームの中から出てきた
 他のバンドに比べて、(ストラングラーズや弟分のクラッシュやダムドなど)
 アルバムを発売した時期が、実は最も遅い。
 理由はズバリ。 「アルバム志向のロック・ビジネスへの反抗」だ。
 もうアルバムを出すこと自体、ダサい、遅れている、反革命的という風潮で、
 シングル盤で、何の予告もなくゲリラ的に発売、攻撃し、煽りまくるという
 ロック王道路線への挑戦と、パンクの新しい方向性を示したものだった。

 

 EMI時代のデビュー曲“Anarchy In The UK”と、ヴァージンから3枚のシングルに、
 (“God Save The Queen”、“Pretty Vacant”、“ Holidays In The Sun”)
 初回プレスのLPにオマケでついてた片面シングル“Sub‐Mision”が、CD化の際に
 付け加えてるんで、7曲がアルバム用の曲といえると思う。 しかし、
 ヴァージンと契約以降は新曲を一切作っておらず、というか、作れない状態で、

 (アルバム制作途中に、バンドの中で唯一“まともな”ソングライターだった
  グレン・マトロックを「ポール・マッカートニーが好きだったから」という
  理由でクビにしてしまったためだ。 ロットンとの確執もネックになったが・・。
  その後任には、マルコムの思うイメージ・キャラにピッタリってことで、
  ロットンの親友で、まともにベースも弾けないシド・ヴィシャスにしたことに、
  このバンドの末路を更に早めてしまう結果になる。)

 ヴァージンも、これを承知の上での契約をしたというニュアンスの発言もあり、
 この何とも得体の知れないパンク・バンドのインパクトと瞬発力に賭けたワケだ。

 今日でも、パンク・ロックの「基本」として通用している、このブツ。
 3コードで、タテのりで、前のめりで、究極の“ヘタウマ演奏”で“がなり立てる”。
 確かに「勝手にしやがれ!!」には、音楽的な革新性があるわけではなく、
 ギターにしろ、ベースにしろ、ドラムにしろ、演奏がスゴいわけでもない。
 メロディーはあってないようなものだし、コード進行もどうってことない。
 また、人によっては、この上なく不快で、うるさいだけのシロモノだ。

  

 しかし何度聴いても、独特のインパクトがあり、他では聴けないグルーヴが、
 が全体にみなぎっている。 単にヘタクソだけじゃ、絶対にこんなに魅力的な
 音は生まれない。 練習したり、勉強したりして習得できるものとは違う。
 パンクの「怒り」とかエネルギーとかいったものだけじゃ、こんな音はでない。

 クリス・トーマスとビル・プライス(エンジニア)により、プロデュース、
 ミックスされた“パンク版ウォール・オブ・サウンド”の分厚く、荒削りで、
 強力なエネルギーの磁場は、今日に至っても影響を与え続けている。

 執拗にオーバーダブされたスティーヴ・ジョーンズのギターは、混沌とノイズと
 ポップ・センスと攻撃性とを非常にうまく合体させている。
 ポール・クックのドラミングは、単純なタテのりではなく、すばやくパターンを
 変化させ、オカズを多用することで曲の疾走感を劇的に盛り上げている。
 そこに、ジョニー・ロットンの早口で捲し立て、巻き舌と語尾をシャクリ上げる
 狂躁的でフリーキーなボーカルは、過激で退廃的かつ、攻撃的に迫ってくる。
 そして、これらの要素が一体となって、前代未聞のアナーキズムを誇示するのだ。

 その結果、パンク・ムーブメントを巻き起こし、女王陛下をコケにし、
 英国王室を侮辱しながらも、結局のところ、英国をパンク産業大国にならしめ、
 祖国に経済的貢献をもたらした奴らは、皮肉なことに、“最高のビジネスマン”
 となってしまうのだ。  みんな、まんまとやられてしまったわけです。
 更にマルコムは、“してやったりか”、意気揚々に大衆を煽りまくる。
 「こいつら全然演奏できねぇんだ」と、言いふらす策略、演出で、注目を集め、
 メディアを利用して、その存在をセンセーショナルにアピールしていった。

 とは言っても。 このマルコム・マクラーレンという男。
 ピストルズのファンからも、ハード・コアなパンクスからも、そして、
 音楽批評家からも、「インチキ野郎!」「このイカサマめ!」「ゲス野郎!」
 と罵られ、批判され続けてきた。

  

 元々はブティックを経営していただけの人物で、当時のイギリスのメディアに、
 絶大な影響力を持っていたわけでもなく、(彼がマネージメントしたバンドは、
 大体メチャクチャになってしまう)、音楽業界からもほとんど相手にされて
 いなかったような奴だ。
 (2007年ロンドン市長選に立候補したときの選挙公約(マニフェスト)は、
  「マリファナの全面解禁」だった)
 
 いくら独特の感性とユーモアな話術を持ってても、過激な演出をしても、
 そんな“時代と寝すぎた男”には、イギリスのメディアも騙されることはなく、
 思いどおりに操れるわけがない。

 ただロットンにシド。 その後にはアダム・アントにバウ・ワウ・ワウ。
 これがダメになると、ジョージ・オダワドという青年を見つけてくる。
 (彼は後にボーイ・ジョージと名乗り、カルチャー・クラブを結成する)
 また、トレヴァー・ホーンと共作した自らのアルバム「DUCK ROCK」('83)
 では、ワールド・ミュージックに、ヒップ・ホップのサンプリングを
 切り貼りしてコラージュする手法は、当時、誰もやってなくて斬新だった。
 だから、目の付けどころは鋭い。 案外、先見の目は持ってる奴なのだ。

 そんなインチキ臭さ、うさん臭さをぷんぷん臭わせることができるというのは、
 ある意味、奇特な才能だと思うし、心から憎めない奴でもあったのだが。

 マルコムはアンディ・ウォーホルになりたかったのではないかと思う。
 ウォーホルがヴェルヴェット・アンダーグラウンドを作ったように、
 彼もセックス・ピストルズを作った。
 それは、既存の概念、ロック、サブ・カルチャーを破壊したかったからだ。
 だとしたら、それは大いに成功した。
 それどころか、ウォーホルがヴェルヴェッツでやろうとした事以上の
 衝撃と影響を、当時の若者に与えたのだから。

 78年1月5日から、初のアメリカ・ツアーを開始するピストルズだが、
 たった8公演の最終日の14日のサンフランシスコ公演でのステージで、
 ロットンは「騙された気持ちになったことがあるかい?」と、観客にそう
 問いかけて、そのままステージを去り、そこでピストルズは終わった。

 「俺たちは“やるべき事”をやったから、生き残れなかったんだ。」
 ジョニー・ロットンが、こう言うように、すべては“ニセモノ”で
 すべては、マルコムに仕組まれた“子供だまし”だったのかも。 

 私も、その“子供だまし”に踊らされた一人。 パンクに魅せられた一人。
 くたばれ、マルコム。 そして、ありがとう。
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2010/04/30 Fri. 00:30 [edit]

Category: 70年代ROCK、POPS

Thread:洋楽CDレビュー  Janre:音楽

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